温故知新~今も昔も変わりなく~【書評・第92回】 飯田洋介『ビスマルク~ドイツ帝国を築いた政治外交術~』(中公新書,2015年)
哲学者エマニュエル・カントは次のような言葉を残している。「戦争とは、法に基づいて判決を下すことのできる裁判所のない自然状態において採用される悲しむべき緊急手段であり、暴力によって自分の権利を主張しようとするものである」。これはカントが晩年に書いた『永遠平和のために』からの引用であり、その戦争観を表している。ただ、カントはこの作品を哲学的な草案として書いており、望めば永遠平和がすぐにでも実現するなどとはまったくいわず、そこに至るまでに必要な条件(条項)を論理的に切々と書き連ねていくのだ。カントは「自然状態」について、「民族は自然状態においては、すなわち外的な法にしたがっていない状態では、たがいに隣あって存在するだけでも、ほかの民族に害を加えるのである」といい、こうした状態から離れるためにも「国際法は、自由な国家の連合に基礎をおくべきこと」(第二確定条項)だとする。そして、自由な国家が連合を為して、やがてコスモポリタニズムへ近づき平和へ至るために、国家はまずそれぞれ共和政体を基本とするべきだともいう。
「国際連合」といったものの理念に少なからず影響を与えたであろうカントは、大学の哲学専攻ならばまず避けては通れない巨大な存在として立ちはだかる。ただ、国際政治学の領域などでは、長らく行き過ぎた理想主義としてあまり重要視はされてこなかった。最近ではだいぶ事情は変わったようだが、それでもパワーを国家の基本とし、それらの勢力均衡において国際秩序を見出すリアリズムを前にするとカントはだいぶ旗色が悪くなる。この勢力均衡やリアリズムの実態について、歴史上から人物を選出し学習せよといわれたら、月並みだがプロシアの鉄血宰相ビスマルクを選択したい。今ではどうかわからないし、私個人の限られた経験と断ってのことだが、学校教育でお世話になった教師でビスマルクのことを肯定的に評価した人はいなかったと記憶している。ビスマルクがプロイセン首相に就任して間もない頃、下院予算員会で行った演説の一部「・・現下の大問題が決せられるのは、演説や多数決によってではなく、鉄と血によってなのであります」がやたら引用され、そこを強調して教えられたのを覚えている。逆にいえば学校教育ではそれ以上の知識を学んだ覚えはないのだ。
ビスマルクの評価は毀誉褒貶が入り交じるのが一般的のようだが、どちらの側を重んじるにしても、ビスマルクの行いをある程度知らなければ評価のしようがない。ビスマルクの研究書は大量にあるが、比較的コンパクトによくまとまっている一冊ならば中公新書「ビスマルク~ドイツ帝国を築いた政治外交術~」(飯田洋介)を挙げたい。2015年に出された本であり、私もだいぶ前に読んで以来だったが、国際政治のテンションが高まる現況において書棚から取り出して久しぶりに読み直してみた。なお、ビスマルクの所業を簡潔に俯瞰して先に記せば次のようになる。
フランス革命とナポレオン戦争終結後、欧州における秩序再建を図るべく行われたウィーン会議の最中である1815年4月、プロイセン王国のベルリンから西へ100キロほどの距離にある小さな村でビスマルクは生まれた。ユンカーと呼ばれる地主貴族の家系であり、教育を受けた後でいくつかの職業を経て外交官となった。1862年にプロイセン王国首相を任じられ、1866年の普墺戦争(オーストリアとの戦争)、1870年の普仏戦争(フランスとの戦争)に勝利し、1871年ドイツ帝国の誕生とともに初代宰相となり、ドイツ皇帝ヴィルヘルムの信任のもとで外交政策をコントロールし欧州の国際政治を動かした。ウィーン会議を主導したオーストリアのメッテルニヒが外交会議における交渉と協調によって国家間の平和を保とうとしたのに対して、ビスマルクは軍事力を基盤にした巧みな外交手腕、必要とされる戦争の遂行に依拠して新たな勢力均衡を作り出し、プロイセン王国やドイツ帝国の強化や覇権を図ったといえる。帝国宰相の地位を辞任して政界を去ったのは1890年であり、新たに即位した皇帝ヴィルヘルム2世との衝突が大きな原因であった。引退後も精力的に政治活動を続けて1898年に死去している。
辞書的な書き方だとこのくらいになるだろうが、ビスマルク自身の歩みや本人が残した手紙や記録などを読んでいくと生臭さが急に立ち込めてくる。本書ではそのあたりの引用が適度になされているのが魅力だ。ビスマルクは、両親との関係はそれほど温かいものではなく、送った大学生活は学業よりも決闘を好む有様で、それでも「官吏任用試験」に合格して官庁に入りはしたが、早々に挫折して投げ出している。このときの心境をビスマルクは父親に向けて次のように書いている。
「プロイセンの官吏はオーケストラの団員に似ています。第一ヴァイオリンであろうとトライアングルであろうと、その人は全体を見通せず、また全体に影響を与えることもなく、自分に割り当てられたパートを、自分の気に入ろうと入るまいと、そのとおり演じねばならないのです。ですが私は、自分がよいと思う音楽をやりたいのです。さもなければ全くやるつもりはありません」(第一章)
ビスマルクを研究する人の間ではこの一文は有名なものであり、ここに当人が持つ強い自尊心などが見出されるという。なお、官吏を辞めたあと田舎に戻りユンカーとして生きることを選ぼうとするが、それも結局なじまないことになる。そのときの気持ちを友人にあてて書いている。
「ここに来てからというもの結婚もせず、とても孤独な29歳の身、身体的には健康を取り戻したものの精神的にはかなり無感覚であり、きちんと仕事はやるけれど、特に関心があるわけでもなく、配下の者たちの生活を彼らなりに心地よいものにしてやろうとするのだが、そんな彼らに僕は騙されるに任せている有様だ。午前中は機嫌が悪いのだが、食事後にはとても愛想よくなる。私の周囲には犬と馬と地主ユンカーの連中だけ。そして彼らの間では、僕はちょっとは名望を得ているのだけど、それは僕が文章を易々と読め、いつも男っぽい身なりをし、おまけに狩りの獲物を肉屋のように正確に解体し、物おじせず落ち着いて馬に乗り、とても強い煙草を吸い、愛想よく、だが容赦なく客たちを酔いつぶしているからなのだよ」(同)
ユンカーとしての生活を送るビスマルクの心境はシニカルなものに溢れていたが、他方で、友人の婚約者マリーとの出会いから刺激を受け、キリスト教を多少なりとも敬う気持ちを持ったとされる。それでもなお、ビスマルクの一生涯は熱心かつ敬虔なキリスト教徒であるとはいえなかったというのが幾人かの歴史家の見解でもある。ユンカー生活にピリオドを打ち結婚したのが32歳、ユンカーの身分を持っていたことでザクセン州の補欠議員に選出されたことで政治家に転身し、そこから外交官へとさらに転じていくなかで頭角を現していく。
プロイセン首相、ドイツ帝国宰相として外交政策を一手に仕切り続けたビスマルクは、やがて「ビスマルク体制」と称される国際秩序を作り上げていく。それは自国であるドイツの軍事力を軸に臨機応変、縦横無尽に同盟関係の締結と解消を繰り返し、イギリス、フランス、オーストリア、ロシアの動きを互いにけん制させながら際どい勢力均衡を図っていくものだ。外交戦の延長に幾つかの武力戦があり、普墺戦争、普仏戦争などは参謀総長モルトケの貢献もあって勝利を収めた。ビスマルクはパワーによって勢力均衡を維持することを追求したが、これについては次のようにいったとされる。
「われわれは、ヨーロッパのチェス盤の上で三国のうちの1つとなることの重要性を見失ってはならない。それこそは、歴代のあらゆる内閣の不変の目標であったし、とりわけ私の内閣の目標である。誰しも少数者になることは欲しない。政治の要諦はここにある。すなわち、世界が五大国の不安定な均衡によって統御されている以上、三国のうちの1つになることである」(ローレン、クレイグ、ジョージ『軍事力と現代外交』より)
ビスマルクは確かに首相、宰相として外交で強い権力を有していたが、独裁者であったわけではなく、実のところ国内では議会、政党、自由主義派などと予算、軍制改革、社会保険政策、労働運動などを巡って絶えず衝突を繰り返していた。また、普墺戦争、普仏戦争の両方で、軍事的指導者であったモルトケ参謀総長と軍事目標としてのウィーンやパリの扱いを巡って対立し、その調整に難儀している。そして、なによりも、常に自らを信任してくれている皇帝ヴィルヘルムとの関係維持に細心の注意を払いながらの権力行使でもあった。本書はこれらの細部をすべて網羅しているわけではないが、国内問題で葛藤するビスマルクの姿をある程度示してくれている。
なお、ビスマルクは「政治は、科学(サイエンス)というよりも技術(アート)である。それは教えることができるような対象ではない」と喝破したとされるが、この人が作り上げた「ビスマルク体制」は彼個人が政界から去り引き継げる者がいないなかで崩壊が始まり、やがてドイツが包囲されるような形で有名な三国協商が生まれ第一次世界大戦へと連なっていく。
ビスマルクの歩みを学ぶなかで、パワーを基本とした勢力均衡の追求といったどこか抽象的な響きを伴うものが、具体的にどのようになされたのかを知る入り口として本書は良いと思っている。改めて読み直してみて、鉄血宰相が多少なりとも立体的に浮かび上がってきた。これは自分勝手な感想なのだが、ビスマルクはパワーゲームで自らに代るものなどなく、自らこそが絶対の適任者という自負を疑わずに持っていた人のように感じている。こういう人は自己矛盾に苦しむことなく自信を保ち、常に外に向かってフル回転でいられる意味では稀有な存在ともいえるだろう。自らの内に矛盾を感じず、外の矛盾に対しては臆するような感情を持たずに機械的に捌いていける。ビスマルクはどこかそんな人だったのではないだろうか。なお、余談だが、冒頭で引用したカントについては、人間が持つ理性が矛盾を命じるということに気づき、自らの内の矛盾を真摯に考え抜いた人であると感じている。
先にも触れたように、カントは『永遠平和のために』のなかで自由な国家の連合を軸に平和への道筋を考えた。他方で一つの強大国が数多の諸国を圧倒するかたちで「平和」を無理やりに保つ「魂のない専制政治」になるようならば、それが戦争状態よりも良いとはいえないともはっきりいっている。なお、「魂のない専制政治」とは秩序はあっても人々が自由ではない状態を指し、こうしたものは今現在においても猛威を振るっている。これを防ぐためには、パワーを基本とした勢力均衡を追求する生臭いリアリズムが、全能ではないが有効打であると受け止め直すことが大切だとも思うのだ。ビスマルクの好悪を論じるのはもっと先の未来でもいい。
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筆者:西田陽一
1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。
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