温故知新~今も昔も変わりなく~【第95回】 加地伸行篇『孫子の世界』(中公文庫,1993年)

たとえば「戦争」と「倫理」という用語を並べてみる。両者は矛盾するものとして、それ以上の思考を放棄する人もいるかもしれない。ただ、これらが並立する余地を求めて、その在り方を問う「戦争倫理学」といった領域も存在する。戦争自体は悲惨なものであることを踏まえつつ、少しでもまともな戦争の可能性を考える学問だ。日本においては長らく、戦争と倫理を互いに真っ向からぶつけ合う知的な営みを忌避し、互いを別物として認識して済ませてきた。周辺環境がもはやそれを許容するものではないが、戦争や軍事に対して倫理を織り交ぜてアプローチすることは、哲学的なものが常に付随して難解でもあり、ジレンマに引き裂かれるこの領域は日本では極めてマイナーな扱いのままだ。


現在進行形の戦争について全容を掴めることはまずなく、立場にもよるが手に入る情報は常に限られるものだ。軍事に通じた専門家と呼ばれる人たちも断片的な情報から分析して知見を伝えることになり、そこには常に限界があることを受け取る側が踏まえておかなくてはならない。分かることと、分からないことをはっきりと明言できない雰囲気のなかで、限られた時間や分量でコメントを求められる専門家は相当に大変ではないかと思う。現在進行形のことは火急であることがほとんどで、当面、何をなすべきかが優先となり、本来、何が正しいかは後回しにされることが多い。これが間違っているとは思わない。ただ、両者の天秤のバランスを常に配慮して決断していくことは、戦争のエンドステートに大きく関係し、このためにベースとしてある種の教養が必要である。戦争と倫理の関係を教養として踏まえておくことはその一つであるが、これは現在進行形の戦争に直面するよりもずっと以前から取り組まれていなければならないのだ。


さて、「戦争倫理学」には専門的・学問的なアプローチもあるが、それほど複雑ではなくもっとシンプルな学び方があるとすれば、『孫子』一冊を使い倒すやり方だと思う。「兵とは詭道なり」(戦争の本質は騙し合い)だとしつつ、「一に曰く道」(政治の正しい在り方)と言挙げする『孫子』は論理的には矛盾を孕む兵法書である(戦争自体が矛盾を孕むものである以上は仕方ない)。これを一遍通読しただけで終わらずに、何度も読み込みながら、歴史の事例と併せて考え抜いてみる。そうした積み重ねが戦略眼を育成してくれるだろう。


シンプルな叙述方法で書かれている『孫子』は短い時間で通読できるが、だからといって理解やマスターが容易なものとはいえない。そのような代物ならば長い歴史のなかでとっくに消え失せていたであろうが、現実にはこの書物に対する評価、アプローチ、解釈、注釈などは数多く存在するのだ。このことを知りつつ、『孫子』を読めばより一層の理解を深められるもので、手助けとなる一冊を紹介したい。少し古い本になるが『孫子の世界』(中公文庫)は、中国哲学者の加地伸行氏が編者となり、全部で13人の中国古典や歴史の専門学者が、それぞれの『孫子』に対する論考を寄稿して一冊に仕上がっている。同書のあとがきでは、この本が何を目的として編纂されたかを、加地氏らしいスパイスを利かせた書き方で記している。


「小説のジャンルに、中間小説というものがある。文芸小説と大衆小説との中間をゆく内容だから中間小説というらしい。・・・ノンフィクションの分野においても同じような分けかたができるだろう。たとえば、学術性と大衆性とのミックスである。『孫子』の場合、刊行物として学術的『孫子』があり、一方、大衆的『孫子』がある。学術的『孫子』はむつかしくて、専門家以外にはとても読めたものではない。大衆的『孫子』は内容が馬鹿馬鹿しく、節度に欠けており、同じくとても読めたものでない。・・・けれども、大衆的『孫子』は、読めばすぐ分かるが、底が浅く薄っぺらである。その内容は朝礼の訓話程度には使えても、とても教養の足しにはならない。・・・『孫子』について、学術的水準を保ちつつ正確な内容の情報をいろいろと分かりやすく伝え、同時に独自の意見を述べ、しかも俗に流れない『孫子』があってもいい。・・・こうした中間『孫子』の製作という目的でできあがったのが本書である。執筆者はすぐれた研究者であり、第一次資料に基づいて論述している・・・」(『孫子の世界』あとがき)


本書は2部構成で前半2章、後半4章立てとなっている。目次のなかから一部を抜粋すると、『三国志』の英雄と『孫子』、毛沢東と『孫子』、『孫子』と日本の軍記物、忠臣蔵・山鹿素行・『孫子』、「孫子の組織論」、「孫子の戦争論」、「孫子の人間論」などがある。どの論考も執筆した学者が力を入れて書いたことが伝わってくるものだ。これらのなかで、個人的にも興味を惹かれたのは、当時、関西学院大学教授の加地宏江氏が書かれた「『孫子』と日本の軍記物」である。日本に『孫子』が持ち込まれ、それがどのように受容されてきたかを分かりやすく展開してくれている。


通説では奈良時代に吉備真備が『孫子』を唐から持ち込んだとされる。平安時代に至るころには、学者などの立場にある者は、『孫子』が軍全体の指揮や組織戦の在り方を展開していることを認識していた。なかでも源義家の兵法の師にあたる大江匡房などが『孫子』を扱ったことが有名であるが、大江自身は「・・匡房は、どれほど兵書に精通しても、争乱に際し、みずから出陣しようとか、蓄積した知識を実戦に生かそうとかは思いもよらなかったはずである。彼は兵書の理論家であって、実践者ではない。彼にとって、兵書は机上の書に過ぎなかった・・」(『孫子の世界』1部第2章)としている。他方で、兵法を実践する武士の方はどうかいえば、源平合戦などに多くみられるが、比較的小規模部隊による奇襲によって勝利を掴む機会が多く、加えて、一騎討などの個人戦が重んじられた。こうしたなかでは組織戦を説く『孫子』が兵法書として積極的に用いられたとはいえないのだ。


「両軍が対峙すると、まず儀式として鏑矢(中が空洞の蕪の形をしたものをつけた矢のことで、射ると大きな音がでる)を放って矢合せを行い、開戦が告げられる。やがて華麗な甲冑に身を包んだ武者が馬にまたがって現れ、ながながと名乗りをあげる。その内容は、己れの一族の誇り高い歴史であり、またこれまでにあげたかずかずの武勲・功名である。敵もまた、これに応じて名乗りをあげ、華やかな一騎打ちが展開される。こうした一騎打ちというような個人戦の重視は、当然また別の戦法―個人戦をみせることになる。ぬけがけである。・・」(同)


武士などの戦士階級の者たちが共有する独特の戦場美学が存在し、それによって戦を行っていたわけであるが、『孫子』自体はそうした美学に重きを置かず、戦に勝利するための合理的な戦術・戦法を説く。なお、『孫子』の原型が生み出されたのは中国春秋時代後半であるが、この時代の前半、中国にも合戦に先立って互いに勇士たちが進み出て「一騎討」(致師)を行うことや、合戦後も一方が敗走を始めた時点でそれ以上の追撃や殲滅を行わないといった美学のようなものがあった。戦の規模が大きくなり、戦士が広く民衆のなかからも動員されるようになってからはそれも消えている。


一言でいえば、日本の中世の武士たちからすると、『孫子』は持て余す代物でもあったといえる。ただ、合戦をするもの同士が独特の美学・ルールを守る限りは成立していた戦のスタイルも、蒙古襲来(元寇)によって無力化された。学校の日本史あたりでは、文永の役と弘安の役の年号を暗記させ、蒙古の集団戦法の前に御家人たち武士団は苦戦するが、台風が襲来して蒙古の船団は壊滅させられて国難が去った程度のことしか教えない。蒙古軍が駆使する組織戦、ときにそれはある意味では「軍事的合理性」を追求するが故の残虐性を伴うが、それが武士団にどのような反省、検証、改善を与えたのか、戦局を俯瞰すればどのくらい危うかったのかなどについてはまず知る機会などはない。日本史を学ぶときの難しさでもあるが、戦がどのように展開されていたかなどを個別に学ぶ機会は一般的には限られているのだ。たとえば、大人向けに出されている『日本の歴史』(講談社学術文庫)の第10巻「蒙古襲来と徳政令」を紐解いてみると、蒙古襲来に先立つ外交関係や本格襲来までの過程を説明している。


「・・文永11年10月5日、モンゴル・高麗連合軍は対馬島に上陸して守護代を討ち取り、10月5日には壱岐を攻略した。次いで肥前の沿岸部が襲われ、対馬、壱岐と同じく、大規模な虐殺や掠奪がおこなわれた。250年まえ、刀伊(女真人といわれる)の来襲のときは、対馬島において殺害された者18人、拉致された者116人、食い殺された牛馬199頭、壱岐島で殺された者148人、連れ去られた女239人、という報告が大宰府により、なされている。モンゴル・高麗軍のため、二島の人々が蒙った被害は、おそらく何十倍という規模に達したであろう・・」(『蒙古襲来と徳政令』第3章より)


そして、この後の九州への襲来後については、御家人竹崎季長などを取り上げ、当時の御家人たちの奮戦のありようを中心に記述している。ただ、戦局全体のなかで御家人たちの奮戦がどの程度の意味を持ち得たか、結果的の「勝利」にどのくらい貢献し得たかなどについてはほとんど言及されていない。これを知りたければ、「歴史」よりも「戦史」の領域となり、日本では特に限られた専門書を読まなければいけなくなるのだ。ここでは蒙古襲来の戦史について細々書くことはしないが、一言いえば二度にわたる蒙古襲来を前にして、御家人たちが戦闘で奮戦をしたのは事実だが、戦局全般からすれば、作戦戦略、戦術の在り方で蒙古に出し抜かれ続けた。特に弘安の役において、蒙古軍は東路軍と江南軍の二手にわかれて日本に迫り、防備を固めていた日本側武士団たちは博多正面に現れた東路軍を、敵の主力だと考えて全力で防衛戦闘を行っている。その一方で九州平戸周辺には江南軍が来てすでに停泊していたが、これについては察知できていなかった。博多方面の東路軍を陽動として日本勢をひとまず牽制しておき、後に江南軍と東路軍の主力が別途合流し伊万里あたりに上陸を敢行、一気に大宰府を突く作戦構想を蒙古軍が持っていたと考える研究もある。現実には台風が蒙古軍を直撃してそれは潰えているから真相はわからない。ただ、武士団たちの想定外のところに蒙古軍が奇襲上陸に成功していた場合、日本勢主力は防備を固めた博多から出て陣外決戦を強要され、さらに六波羅探題からの九州に向かっていた援軍が間に合わなければ各個撃破される可能性はあった。結果的には台風というこれまた想定外によって「勝利」を手にした武士団たちは、その後も自らの戦法に対して積極的な検証や反省を科して、そこから教訓を得て改善を加えることはほとんどなく次の時代へ向かった。


「・・それでは蒙古襲来という強烈な体験によって、日本の武士は組織戦の必要を実感し、彼らはこの戦法をその後の実戦に活用するということになるのだろうか。・・・蒙古軍の与えた実戦における組織戦有利という衝撃は、これまでの戦法に変革を迫るような、本当の意味の衝撃ではなかったのである。かつての源平合戦における戦いの様態は、南北朝内乱期に至っても、ついに変わることはなかった・・」(『孫子の世界』1部第2章)


武士たちが持つ独特の美学やルールが変容をはじめ、『孫子』が説くところの組織戦が受け入れるのは、戦の規模がより大きくなって「足軽」を必要とし、その対象を広く社会に求めた戦国時代になってからとなる。


さて、冒頭で触れた戦争と倫理がどのような関係性を持つかは一言でまとめていうことはできない。それは、国、時代、歴史、文化によってかなりの振れ幅がある。ある国で長らく正しいと思っていたやり方が、外国の侵略を前にしてまったく通用しない事態に直面してしまうことや、とても同じ倫理を共有できるとは思えないような残虐なものをみることもあるだろう。そうした可能性を踏まえて、どのような「戦争倫理」(軍事哲学)を持つかは、結局のところは国民の意志が決定していくことでこの時代は良いと考えている。ただ、その前提として、他国の「戦争倫理」について徹底的に研究を重ねて、それに現実的対応できるような在り方をしっかりと提示されて議論がなされなければならない。『孫子』の冒頭「兵とは国の大事なり。死生の地、存亡の道、察せざる可からざるなり」の一言はやはり今でも鋭く迫って来るようにも思うのだ。


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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

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