温故知新~今も昔も変わりなく~【第96回】 滝川幸司『菅原道真~学者政治家の栄光と没落』(中公新書,2019年)

2年ぶりの京都出張は日帰りで済ませることになった。世間は連休中だったので京都駅周辺は観光客と思しき人たちでそれなりに活況を呈していた。京都ではおしゃべり好きなタクシー運転手にかなりの確率で当たるのが経験則であり今回もまた的中。こういうときは、陽気な運転手が好き勝手に何かを放言するのを聞き役に回るより、こちらが聞いてみたい情報についての質問を矢継ぎ早に放つことにしている。自らが受動に陥ることなく、主動を取り続けるのは「戦いの原則」であり、そうすることで、ときどき面白い情報が聞けたりするものだ。仕事の所用は順調に終わり、東京へ戻る前に折角だから北野天満宮さんを目指した。菅原道真を祀るそこへ赴くのは実のところ初めてであり、穏やかな季節なので30分ばかし市内を散歩し境内にたどり着き、無事参拝を済ませた。


「白紙(894)に戻そう遣唐使」以外で、歴史上の人物としての菅原道真を強く意識したのは万葉集についていろいろと本を読んでいる折だ。漢詩人としてのイメージが一般的に強い道真ではあるが、「やまと歌」を集めた『万葉集』の形式を踏まえて、新たな歌を集めて『新撰万葉集』を編んでいる。奈良時代と平安時代では日本語がそれなりに異なり、平安時代の人にとって読みこなすことが難しくなっていた万葉仮名を用いる万葉集を、道真は難しいといいながらもふつうに読みこなすことができた。時代はすでに盛んとなっていた漢詩文に対して宮廷和歌が勃興しはじめているときだ。現代では漢詩・和歌のいずれもが古典教養の一つであり、仕事でのいわゆる実務能力を証明するものとはまったく関係のないものになっている。当時は政治権力を円滑に行使していくために重要な手段であり、外国との外交では漢詩の応酬が延々と続き、宮中の詩会でも巧みな漢詩や和歌を即興でつくることが求められた時代だった。ただ、これは貴族たちにとって容易とはいえず、相当の学習や修練が必要となされた。道真のように圧倒的に知力が高く、漢詩も和歌も難なくこなしてしまう人間は周囲からどのように受け止められていたのだろうか。


名門貴族の出身ではなかった道真が、若い頃から官僚として出世を重ねて右大臣としてピークを極め、後に大宰府へ左遷されて死去していくまでの歩みを知りたくて、適当な本を探しているときに見つけたのが『菅原道真~学者政治家の栄光と没落』(中公新書)であった。

著者の滝川幸司氏は平安文学などを専攻とされる大学の先生であり、道真について深く研究をされてきた方だ。滝川氏が「大学一年生が辞書なしで読める」一般向けの本を出してほしいと編集者から依頼されて書き上げたのが同書であり、その企図は成功しておりコンパクトによくまとめられている。


菅原氏は遡ると土師(はじ)氏を名乗り葬送を司る家系であったが、道真の曽祖父の代に改氏姓をしている。それ以降は儒学を家学とし、曽祖父、祖父、父のいずれも官僚として朝廷に仕えている。学者の家系が実務官僚として官位で栄達することはめずらしい時代に、祖父は従三位(従五位より上は貴族)、父も参議で従三位に達している。菅原氏は儒学を生業とする儒家として、文章博士の立場では純粋に儒学研究を担い、政治に関わる上では儒学を実務知識として取り扱う官僚の立ち位置で仕えていた。


当時、朝廷に仕えるための人材を育成する高等教育機関として大学寮があったが、ここは明経道(儒学科)、紀伝道(文学科)、明法道(律令学科)、算道(数学科)の4学科で構成されていた。この大学寮という制度が出来たのは奈良時代よりも先に濫觴があり、当初は明経道が優位だったが、次第に紀伝道が台頭してくる。朝廷は政務を行っていくなかで何か疑問が生じた場合、明経道、紀伝道、明法道などの学者に諮問し、学者はそれぞれの立ち位置で見解を述べることになった。明経道、紀伝道のいずれもが儒学を共通の学問として扱っていたが、両者のアプローチは異なった。前者は儒教にまつわる経典を規範的・哲学的に扱い原理原則に重きを置くのに対して、後者は儒教経典を他の歴史書(史書)を踏まえて扱い、経典の文脈解釈も比較的柔軟であることを許容している。一言でいえば、明経道が哲学的、紀伝道が文学・歴史的、明法道が法律的アプローチを重んじたことになる。なお、道真を含む菅原氏は紀伝道出身の学者であり、紀伝道の受験を志す門人たちにその対策を教える私塾「菅家廊下」も営み、そこから紀伝道へと送り込むなど一定の影響力を持っていた。


道真は幼い頃から英才教育を受け、紀伝道で学問を修めたのち20代半ば過ぎには官僚としてスタートを切った。外交使節との対応などで実績を上げ、30歳で従五位下、兵部少輔(ひょうぶのしょうゆ)、民部少輔(みんぶのしょうゆ)という次官クラスに補職されている。これは曽祖父、祖父と比べても早い出世であった。33歳で式部少輔と文章博士を兼務し、39歳では大陸からの外交使節を迎えるために治部大輔にも一時就任している。漢詩が外交戦で必要な手段であったことは先にも触れたが、道真はこのときも見事な漢詩で外交団と応酬し任務を大過なく終えている。ただ、本人がどれほどの謙遜を示しても、高すぎる能力と早すぎる出世は周囲から嫉妬や誹謗中傷を招くようで、42歳で一度地方へ転出して讃岐守となった。国司としてしっかり業績を上げて都に帰任し、48歳で従四位、左京大夫、49歳に参議、51歳で従三位、中納言、53歳で正三位、権大納言、右大将、55歳で右大臣に到達している。そこから57歳で謀反の疑いで大宰府へ左遷され、59歳で死去した。


栄光と没落の道真の歩みであるが、右大臣の立場にあって急に謀反の嫌疑をかけられ大宰府へ左遷された大きな原因はどこにあったのだろう。道真自身の一生の人柄は儒者としての分を弁えたもので、讃岐守としては良き統治者であり、そこに住まう人々から信頼も寄せられている。他方で、都での勤務を好む気持ちを漢詩に託し遺してもいる。道真は、高すぎる能力・知力、当時の学者の分を超えた出世が常に妬まれていることは気づいており、最大限の注意を払いながら言葉、文章、漢詩、儒学を扱い、高級官僚として朝廷に仕えた。当人が右大臣にまで到達することを望んでいたかは分からないが、その地位に到達したとき道真は何度も辞職願を提出しており、その理由の一つとして周囲から中傷が厳しいことにも触れている。だが、朝廷は辞職を認めずに置き、後に道真は突然左遷となるのだ。左大臣藤原時平との確執が直接の原因だったと一般的にはよく言われている。


滝川氏の書いた『菅原道真~学者政治家の栄光と没落』は、道真の一生を限られた紙幅でまとめているので、各事件をすべて詳細に網羅はしていない。ただ、その中でも一つ重点的に書いているのが、道真が讃岐守として地方にいるときに起きた「阿衡事件」についてである。それは、宇多天皇、藤原基経、橘広相などの間で起きた一つの政争であった。宇多天皇即位の後、先帝の頃より、天皇に奏上する政務全般をみる立場にあった藤原基経に、引き続きその任にあたるように「阿衡」(あこう)というポストを示して勅書を出したことが契機となっている。基経はこの「阿衡」という地位が不明確ということで政務を拒絶し、これがどのような権限を持つものなのかを巡り、明経道や紀伝道の学者たちを巻き込んで大きな論争へと発展している。宇多天皇は政務の滞りに憂いをあらわにするも、基経は「阿衡」という地位には具体的な職掌がないとして政務を見ることを拒む。仕方なく、宇多天皇は「阿衡」という用語を使った朝廷側のミスということで幕引きを図ろうとしたが、今度は勅書を起草した橘広相が出仕を拒否する次第となった。


この間、紀伝道を含む学者たちは「阿衡」に具体的な職掌なしとして、基経の政務万事を見るのは無理筋との見解を出している。この膠着状態に一石を投じたのが讃岐守として地方にいた道真であり、書き上げた一書をもって他の学者たちのいう理屈をひっくり返す試みをしている。それは、「阿衡」という言葉を儒教経典や歴史書のなかのオリジナルの意味だけで解釈せずに、そこから離れた解釈を許容する紀伝道の本来のスタイルに依ったものだった。これによって基経は政務万事を見ることが可能となり、同時に橘広相はミスの責任を負わずに済むという辻褄を合わせられるものだった。


滝川氏の著書では道真のこの一書が事件の解決にはさして影響を与えることはなかったという。しかしながら、事件の解決にそれほどの影響がなかったとしても、貴族、学者たちの内心に与えたネガティブな心理的インパクトは大きかったのではないだろうか。行き詰っていたはずの理屈を、鋭利にひっくり返す新たな理屈の出現は、内心に恐怖、怨嗟、嫉妬、憎悪などいろいろなものを呼んだとしてもおかしくはない。そして、道真は地方にいたことで、その真意とするところを直接弁解することもできず、結果的にこの書が独り歩きしていたとしても、政治的な処置対策を打てなかったことになる。要するに道真は一書を発することは自らの主動で出来ても、発した以降は物理的に防戦もできない受動に回る次第となり、これは権力中枢に関わる者としては危険行為だったのかもしれない。なお、道真が大宰府に左遷されるのはこの阿衡事件から10年以上先のことではあるが、このときの火種が一部の者たちの中で長く暗く燻り続けたことが左遷へ影響を与えたように感じている。これを学問的に証明するのは難しいのだろうし、要するに想像の域を出ないのだが、ときに人間は積年の恨みなどを一方的に倍化させていくことがあるのは学問をせずともわかる。なお、道真は若い時より圧倒的な才能と知力が備わっていたが、だからといって怠惰に陥ることなく、積年の努力で開花させていった人である。もっとも、死去の後で都に災いをもたらす「怨霊」扱いをされ、後に生きている者の事情で名誉回復されて太政大臣が追贈となり、いつの間にか「学問の神様」に祭り上げられることは本人の予定にはない没落と栄光であっただろう。こうした一方通行が道真公となった当人にどこまで通じたのかはわからないが、北野天満宮さんは崇敬を受けて長きにわたり静かに佇み続けているのは確かなのだ。


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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

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