温故知新~今も昔も変わりなく~【第98回】 西田幾多郎『西田幾多郎書簡集』(藤田正勝編・岩波文庫,2020年)

著名であったことで故人となった後に個人間でやり取りをした書簡が晒されてしまう。今日でいえばメール、LINE、メッセンジャー等が全て第三者の目に曝露されてしまうようなものだが、個人間でのやり取りが、関係のない第三者にまじまじと読まれ、私生活や個人的な感情まで知られてしまうのはなかなかの手厳しい運命だ。日本において独創的な哲学を起ち上げたとされる哲学者 西田幾多郎の全集は19巻セットで、そのなかには個人的なやり取りを含む書簡4500通超(旧版は2850通程度)が採録されている。個人的な苦悩の告白、願望、依頼、助言、批評などを含む私信を全集に入れるべきかどうか、編纂に関係した人たちの間では意見が激しく割れた。西田に近かった人は故人の名誉を慮って反対すれば、別の編者は全集を完璧にするためには書簡の収録がなされるべきだと主張したとのことだ。


この全集が抱える書簡を321通までに絞ってコンパクトにした文庫版書簡集が岩波文庫から2020年に出版されている。私がこの事実を知ったのはわりと最近のことで、京都出張の折、空き時間で散策をしている時に立ち寄った書店でこの『西田幾多郎書簡集』をみつけ購入した。この本を編んだ藤田正勝氏もまた哲学者であり、西田幾多郎など京都学派を軸として思想史を研究されてきている御仁である(藤田氏は高校生向けの倫理参考書なども書かれている)。私個人が初めて購入した西田の著作は『善の研究』で、それは高校生の時だった。当時の倫理科教師がカントについて授業をしている折に、そこから脱線して西田幾多郎の話を滔々と始めて、『善の研究』について触れた。教師曰く、「カントよりも西田は難しいが、じっくり読むだけの価値はある」というので、その日の下校時に古本屋で購入して、早速トライしてみたものの歯が立たず見事に駆逐された。


その後、大学、社会人と時を経ていくなかで、カントなどをじっくりと読む機会に預かり、それと並行する形で西田についても読み重ねてきた。初めて買った『善の研究』(岩波文庫版第65刷)は今も手元にあり、読む都度の書き込みなどでもはや得体のしれない代物になっている。何度も読んだからといって、難解な西田哲学を理解したとは思っていないが、今感ずるのは、『善の研究』などは書き出しに本質が凝縮されており、最初の数文を素直に受け入れるか、拒否するかによって理解の明暗は分かれるというものだ。そして、実のところ西田哲学は、一見すると論理で追わせて読ませるようにしながらも、読み手が内蔵する論理の意味合いやスペックを問いかけ、同時に論理から離れさせるように離れ業を迫ってくる。この仕掛けを受け入れるかどうかの次第は読み手自身に任せられているように思う。


「経験するというのは事実そのままに知るの意である。全く自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。純粋というのは、普通に経験といっている者もその実は何らかの思想を交えているから、毫も思慮分別を加えない、真に経験そのままの状態をいうのである・・・」(『善の研究』第1章)


1870年、現在の石川県かほく市に生を受けた西田は、帝国大学哲学科を経て石川に戻り20代後半までを金沢などで教員として過ごし、その後は山口県の高校へ赴任し教鞭を執る。京都帝国大学で助教授となったのは40歳のときで、そこから58歳まで教授職を務めた。退職後は京都から鎌倉へと移り、引き続き哲学者として学問を続け、1945年に75歳で亡くなっている(『善の研究』の原稿は金沢時代に書き、出版されたのは京都帝大に赴任した翌年)。


『西田幾多郎書簡集』では21歳から75歳までの書簡を選抜して4部で構成されている。哲学者としてビックネームになった西田ではあるが、その私生活では子供や妻に先立たれていくなど悲しい出来事を経験しており、ときにそうしたやりきれなさを率直に吐露している書簡がところどころに収められている。第1部では、西田が帝大を卒業して石川県の高校で教鞭を執っているあたりのものがメインで、再度の上京への志、学問に励みたい気持ち、故郷で感じる閉塞感、気力の衰えを恐れる気持ち、禅に熱心に励むことなどを友人に向けて発した書簡などが収められている。


「小生が東京へ出たいといふ考は人に知られたいといふ考よりはむしろ学問上の便宜を得んとするに御座候。勿論田舎に居ては学問ができぬではないが東京に居れは種々の便宜あることは明白と思ひ候。小生は自分の教を受ける人、自分を賛する人よりも自分を教ゆる人、自分を非難する人を要し自分に薫陶せらるゝ人よりも自分を薫陶する人を要し候・・」(藤岡作太郎宛)


40歳で京都帝国大学へ赴任した西田は、在職中は日本の哲学を背負うくらいの気概でもって学問に取り組み、同時に京都に有為な人材を集めるべく奔走している。第2部は京都帝大時代の書簡が軸となり、後に哲学への立場の違いから袂を分かつことになる田辺元への助言、大学を去ろうとする朝永三十郎への慰留、和辻哲郎への私信、学友との学問的な真摯なやり取りなど、西田哲学の信念を知る上で鍵となるものが含まれている。


「沢山の人が聞いていても本当に私の苦心を知ってくれる人は少ない、君には聞いてもらいたいと思うのだが、そう翌日までも興奮しては困る、余程心身が衰弱して居られるのであろうと思う。宗教が他の価値実現に対し必要な条件になること、信なくして本当の善はあり得ないということは私も全く同意見です。私はそれを否定するのではない、特に道徳価値とは特殊の関係があると思う。ただカントの如く道徳価値の(ママ)上に置くことには同意できぬ。宗教は道徳を超越しうる。・・・」(田辺元宛)


58歳で停年となり鎌倉に移住した西田は退職後も学問に旺盛に励んでいる。妻と死別したことで孤独と寂寥に苛まされていたが、61歳で再婚も叶って安らぎを得て、より学問に深く入り込んでいく。第3部は退職後の西田の活動を納めており、そのなかで日本の哲学の有り様を強く非難もしているものなどもある。


「・・・ただ私は従来の考え方というものを根底から変して見なければ新らしい哲学の発展というものはできない様に思われるのでどれだけ役に立つか知らぬが少しずつでもそういうことを努力して居る次第です。・・・ただ私は日本人はもっと自分で深く考えねばならない。今では日本人は相当深く独逸哲学及びその他を理解することができまたそれを小器用に応用することもできるがどうも深いもの大きいものがない。ただ人真似に過ぎない。自己の腹の底から出るものがない。哲学は芸術の如く生命の発現にてただLernen(学習)とAnwenden(応用)とだけでは何の意味もない」(三宅剛一宛)


「・・・大言壮語の様ですが昔からの哲学は未だ最も深い最も広い立場に立っていない、それを掴みたい、そういう立場から物を見(、)物を考えたい、それが私の目的なのです。体系という事はそれからの事です。私を批評する人は言葉についてそれを自分の立場から自分流儀に解釈しそれを目当として批評して居るので私には壁の彼方で話して居る様にしか思われないのです・・・」(林達夫宛)


西田が晩年を迎えていくなかで、日本は大東亜戦争へと突入していく。西田は哲学の領域では名は知られており、時に政府からの打診で有識者を務め、皇室への御進講も担い、それについて本音と思われる気持ちをいろいろと書き残している。そして、大東亜戦争の過程で政治家との談義や批評、軍人の視野や思考の問題、戦争と戦況の見立て、学問と国家の未来などを憂いたやり取りなどが第4部では採録されている。そのなかでも大きく目立つのは、西田が東条英機に読まれる前提で、個人的な知己でもあった佐藤賢了軍務局長に宛てて書いた「大東亜共栄圏」についての原理の論文要旨部分である。


「・・・世界が今日の如き世界情勢を脱却して、真の世界平和に入るには、各国家民族が各自自己を越えて一つの世界史的世界即ち世界的世界を構成するの外にない。しかし一つの世界的世界を構成すると云うことは、ウィルソンの民族主義においての様に、平等に各民族の独立を認めることによって一つの国際聯盟を構成すと云う如きことではない。・・・真の世界的世界を構成すると云うことは、各国家民族がそれぞれの世界史使命を自覚して、各自自己を越えて、それぞれの地域伝統に従って、一つの特殊的世界を構成し、而してかく歴史的地盤から構成せられた幾箇かの特殊的世界が結合して、真に一つの世界的世界を構成することである・・・」(佐藤軍務局長宛)


なお、論文も要旨も難解とされ、結局は仲介の不手際などもあり東条の手には届かず、このペーパーが何かに反映されることはなかったという。1945年、昭和20年3月14日付、日本が降伏する5か月前、西田が死去する2か月半前に次のような手紙がある。


「我国の現状については一々尊兄の御手紙と御同感、実に実に憤慨の至りに堪えませぬ。・・・私は国体を武力と結びつけ民族的自信を武力に置くというのが根本的誤ではないかと思うのです。・・・永遠に栄える国は立派な道徳と文化が根底とならねばなりませぬ。・・・国家が一寸武力的に衰えても高い大きな立場において国民が自尊心を有つならば必ずまた大に再起するでしょう。私は日本国民は相当優秀な国民と信じます。ただ指導者がだめであった。残念の至りです。そして学者も文学者も深く考う所なくただこれに便乗追従するにすぎませぬでした。私は今日程国家の思想貧弱を嘆じたことはありませぬ。・・・何とか若い人々の奮起をいのります。東京の事、実に悲惨酸鼻の至りに不堪」(長与善郎宛)


私自身は、西田幾多郎全集はだいぶ前に購入していたが、今回「書簡集」が文庫で出されたことでこれをじっくりと読んでみた。西田が哲学的にどのような課題を身近に持ち、信念をいかに保ったかを知るとともに、その人間的弱さにも触れることができた。文章が生々しいだけに、それは深く静かに響いてくる。


ところで、西田の生まれ故郷であるかほく市には、西田幾多郎記念哲学館なるものがある。私は訪れたことはないのだが、公開情報によると安藤忠雄氏の設計による建物であり、そこには多くの資料や展示物が収められている。西田の書斎部分を移築したものを公開し、西田哲学に関係する講座などを定期的に開講している。なお、同館のHPに西田の終焉について触れている文章がある。「・・・西田は海を愛していました。それは幼き日々を過ごした白砂青松のかほくの記憶に起因していたのかもしれません。鎌倉の海に故郷かほくの風景を重ねていたのではないでしょうか」(西田幾多郎記念哲学館HPより) 確かに西田は海を愛していたし、そのことを書簡のなかでストレートに表現している。ただ、別の書簡では北の海と南の海では特徴が違うともいってもいるのだ。


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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

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