温故知新~今も昔も変わりなく~【第100回】 ルソー『社会契約論』(光文社古典訳文庫,中山元訳,2008年)

参議院議員選挙の結果を踏まえて、ある著名な言論人が「ああ、そうですか」といいながら、国民は改憲、経済問題、コロナ、気候変動、戦争、人口減少などの論点を含め、政権与党のこれまでの政策を支持し、日本が衰微していくシナリオを選んだことになる。そして、国民が一番ダメージを受けるが、その責任は国民が引き受けるしかなく、それが民主主義だ、という主旨のコメントをされていた。


全国紙の中の短い記事であり、限られた文脈からは当人の真意がよくわからないところもあったが、私個人はこの民主主義の解釈があまり理解できなかった。いまさらいうまでもないが、日本は基本的には直接民主主義ではなくて、間接民主主義、代表民主主義である。憲法前文において「日本国民は正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し・・」と明記されているように、主権者たる国民がその代表者を選び出し、その代表者が国政を担うことを期待されている。


この考え方を素直に解すれば、日本が未来に向けてどのようなシナリオを選んでいくのかは、その中身も含めてこれから国会において大いに議論され、そこで詳細が決められていくことになるはずだ。「衰微していくシナリオ」なるものが選挙に際して国民に直接明示され、それをマジョリティが意識的に選択し、政治家が単なる代理人としてその遺漏なき執行を求められているわけではないのだ。


政治思想の視座から間接民主主義を支持する存在にモンテスキューなどがいる。18世紀に出版された『法の精神』において、古代の人々が直接統治(直接民主制)を実行しようとしたこと自体が欠陥なのであり、人民は代表者を選ぶことはできても、直接統治に参加するのは能力的に難しいとすら言及する(モンテスキューの『法の精神』は、GHQのスタッフが日本国憲法を考えるにあたって参考にした『ザ・フェデラリスト』(マディソン、ジェイ、ハミルトンの共同著作)にも強い影響を与えている)。これとは反対に、あくまでも人民主権を全面的に訴え、人民による集会で物事を決めていく直接民主主義を礼賛し、代表者による間接民主主義などとんでもないとの政治思想を唱えた存在もいる。その代表的なのが学校の教科書にでも出てくるスイスのジュネーヴに生を享けたフランスの思想家、ジャン=ジャック・ルソー(1712~1778)である。


ルソーの著作である『社会契約論』は、モンテスキューの『法の精神』と同じく、18世紀、フランス革命よりも前に出された政治哲学の書として扱われる。内容を端的にいえば、フランス革命以前の旧体制では、真に人民が主権者となっている国は存在しなかったとして、これをいかなる制度を構築すれば実現できるかを想像したものだ。


「・・社会のすべての構成員は、みずからと、みずからのすべての権利を、共同体の全体に譲渡するのである。・・・すべての成員は、みずから譲渡したのと同じ権利を、[契約によって]うけとるのだから、各人は自分が失ったものと同じ価値のものを手にいれることになる」(第1篇第6章)


いわゆる自然状態(社会が無い状態)では、人が普通に生きていくことは難しく自己保存ができないので、それを避けるために人々は社会契約を行い共同体(国)をつくることになる。その際には、上記の引用文にあるよう一度は共同体に譲渡したものと同じ権利が戻るので、主権の行使は人民が徹頭徹尾持つのだという理屈となっている。ルソーの特徴はこの人民主権にあり、代表者などに法律の物事の判断を委任することはNGであり、自分たちで集会を開き決めていく直接民主制を要求する。


このことを原理的に可能とするために「一般意志」(もともとは神学の概念)という用語を持ち出してくる。人民それぞれの個人的利害と直結する「個人意志」、これらの「個人意志」が集まってできる「全体意志」などと「一般意志」をはっきりと区別する。「一般意志」を簡潔にいえば、自己中心的なものではなく、社会を統治するために共通の利益を調整させる理性的な意志を指し、ルソーはこれに人民が服して使いこなせることを期待しつつ『社会契約論』を創作した。


「・・この国家のさまざまな力を指導できるのは、一般意志だけだということである。というのは、社会を設立することが必要となったのは、個人の利害が対立したためであるが、社会が設立できたのは、これらの個人の利害を一致させることができたからである。さまざまな個人の異なった利害のうちに、ある共通な要素が存在したのであり、これが社会の絆となるのである。・・・そこでわたしは、主権とは一般意志の行使にほかならないのだから、決して譲り渡すことのできないものであること、・・・個別意志とはその本性からして、みずからを優先するものであるが、一般意志は平等を好む傾向があるからである・・・」(第2篇第1章)


ルソーは、政治家、代議士などは人民の代表ではなく、単なる代理人に過ぎないとし、人民が自ら参加していない議会などで決められた法律なども全て無効だとする。この論を展開していくなかで、同時代のイギリスを槍玉にあげて、イギリス人は選挙のときだけ自由を享受できるが、選挙後は政治家の奴隷にさせられているに過ぎないともいう。


ルソーが代表に委任するという考えを徹底的に批判する理由の一つとして、君主政、貴族政、民主政といった体制の形式は問わず、主権をひとたび譲渡してしまえば、為政者は個別意志を優先しながら、一般意志を無視して自らの利害だけに関心を持つことになるからだとする。なお、一般意志にきちんと服して、主権を行使して集会で議論を尽くすことを期待されている人民について、ルソーが要求する水準は次のようなものなのだ。


「人民が十分な情報をもって議論を尽くし、たがいに前もって根回ししていなければ、わずかな意見の違いが多く集まって、そこに一般意志が生まれるのであり、その決議はつねに善いものであるだろう。しかし人々が徒党を組み、この部分的な結社が[政治体という]大きな結社を犠牲にするときには、こうした結社のそれぞれの意志は、結社の成員にとっては一般意志であろうが、国家にとっては個別意志となる。・・・だから一般意志が十分に表明されるためには、国家の内部に部分的な結社が存在せず、それぞれの市民が自分自身の意見だけを表明することが重要である」(第2篇第3章)


現代社会の事情を考えれば、これは現実的にはとても難しい。ルソーのことを少し弁護するとすれば、当人は同時代の都市国家ジュネーヴという比較的小規模な国家が念頭にあった。当時のジュネーヴでは、市民たちが集まってセルクル(サークル)という組織をつくり、そこで政治を議論する文化が存在していた。それぞれの地区にセルクルがあり、そこでは12~15人の市民が部屋に集まって、飲食しながら午後の自由時間を読書や議論などに費やす習俗があったという。このようにして知的に鍛えられた市民が都市国家において直接民主制を駆使していく姿をイメージしながら『社会契約論』は執筆されている部分もあるのだ。


ただ、ルソーの時代とは大きく異なる今日でも、「十分な情報を持って議論を尽くす」ということが大切であることには変わりはない。話は変わるが、本年度から高校では「公共」なる新科目が開始された。政治、法律、社会について理解しつつ「議論する力」を育てていくのが科目としての目標とされている。しかしながら、健全で活発な議論を生み出すための方法やノウハウが教員側に蓄積されておらず、実際問題としてまだ手探り状態だということを先日ある新聞が報じていた。現代は過度なまでに効率性を求められ、情報量が洪水のようにもたらされる中で、大人もなかなか議論の良き手本を見せられなくなっている。それでも、「議論する力」がやはり民主主義の基本であることに変わりはなく、高校からそれを養おうとする試みは良いと思う。


日本ではルソーが主張したような直接民主主義の手法を全面採用するなどは実質的に不可能である。それを踏まえて間接民主主義を営むなかで、彼が危惧した為政者がその「個別意志」を優先して、「一般意志」を無視するのを防ぐためにも、国民が健全な議論をする力を地道に養っておくことは重要だ。そうした意味では、冒頭で引用した言論人のように「ああ、そうですか」と諦念を吐き出すよりも、選ばれた者たちに「ぜひたのみます」とエールを送りつつ、良きシナリオをつくり上げていくのを傍から「議論する力」を養いつつ見守る。そして、選ばれた者たちのいつでもリザーブになりうる人材をストックしておけるように共同体が努力するのが健全な態度だとも思うのだ。


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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

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