温故知新~今も昔も変わりなく~【第102回】 山之内靖『総力戦体制』(ちくま学芸文庫,2015年)

毎年8月6日、9日、15日周辺は過去の戦争にまつわる行事や運動がどこかで何かの形で営まれる。過去に対してどのような態度で向き合うかは各人の自由ではあるが、今年は戦争という言葉が持つ意味が昨年よりも重々しくなっているようだ。多くの人々の予想を悪い意味で裏切る形でロシアがウクライナに侵攻して半年近くが経つが、毎日双方で多くの犠牲者を積み上げながら戦争は継続している。日本国内の日常生活は昨年とあまり大きくは変わらないが、ウクライナ戦争以降、俄かに沸き起こった防衛費倍増に象徴されるように安全保障や国防の在り方も根本的に問い直される事態となってきた。学者、評論家、記者、ジャーナリストなどが安全保障環境の変化について意見・見解を発表し、議論も活発化してきている。そうした中で、自衛隊で将官(将軍)などを経験した元自衛官も意見・見解を発表するのが珍しくもなくなった。軍事的合理性や運用のリアリティから何が可能かをプロとして世の中に発信する作業は大切だと思っている。


現代では進行中の現象についてもたらされる情報は多くなるが、それを評価するのは容易ではない。ウクライナ戦争で改めて注目された「ハイブリッド戦争」が実態としてどうなのかはまだ分からないところが多い。同時に、「古典的戦争」としての側面がどれほどのウェイトを占めているのか判断するのも実際は難しい。そして、これから先の未来、戦争というものがどのようになっていくのかも不明なのだ。テクノロジーを駆使した「サイバー戦」「宇宙戦」という新たな領域が生まれてきたことで、結果的に武力戦は局地的となるのか。それとも過去2度の世界大戦のような「総力戦」に近いものが結局のところ立ち現れるのか誰もはっきりとしたことは言えないのが現実である。


ところで「総力戦」という言葉は基本的には第一次世界大戦前後の戦争様相を表すときに使われる歴史用語であるが、国家が持つあらゆる資源を動員して行う戦争を指すときにも使われる。この総力戦というキーワードを軸にして一つの歴史観を発信したのが故・山之内靖だ。1980年代の終わりに東京外国語大学教授であった山之内靖は、日本、アメリカ、ドイツの研究者と共に総力戦研究のプロジェクトを起ち上げた。


山之内は「戦後」という言葉の下に過去を断罪・断絶して新たなシステムでスタートを切ったとする「リベラル」な歴史観とは一線を画した。そして、戦後に立ち現れた社会的福祉国家の諸々の制度や思想類の多くは、戦前の総力戦へと向かってあらゆるものが動員されていく時期に始まり、それが戦後の高度経済成長期へと引き継がれたとしている。戦時に発した動員は分散していた社会を国民として統合していく作用を持ったが、それは戦争に敗れた日本やドイツだけに固有であったわけでなく、勝ったアメリカやイギリスにも共通する。このときにつくられた総力戦体制は根本的には解除されることなく継続し、それが経済成長をベースにした福祉国家や開発主義国家を生み出すことに繋がり、国家をシステム化された社会へと変貌させたとしている。


この論考自体は、ちくま学芸文庫から2015年に出版されている『総力戦体制』に含まれている。同書自体は2014年に山之内が逝去した後、かつて共に研究をした3名の学者によって編纂され、総力戦を軸とした山之内の研究論考が多数収録されているものだ。


「戦時動員体制は、あるいはニューディールという型をとり、あるいはファシズムという姿をとりながら、先進資本主義諸国において、資本が社会的諸モーメントを全包括的に掌握するプロセスであった。自己組織的体系としての世界資本主義は、強力な国民的統合というこの前史をふまえて登場する」(第2章「戦時動員体制の比較史的考察」より)


日本でわりと根強い考え方の一つに、戦前の日本ではファシズムが席捲して民主化を飲み込み、非合理的なイデオロギーを支柱にした強権的な支配体制が国民に戦時動員を強制したが、敗戦後に取り組まれた改革によって大正デモクラシーの道筋に戻り民主化を進めてきたというものがある。そして、これを世界史へと拡大すると、第二次世界大戦を非合理的かつ専制的ファシズム型体制(ドイツ、イタリア、日本)とするのに対して、合理的かつ民主的なニューディール型体制(アメリカ、イギリス、フランス)といった対決構図で捉えることになる。ただ、こうした見方だけでは物事の別の側面を捉え損ねると山之内は主張する。


「ニューディール型の民主主義体制ははたして我々に望ましい社会を約束したといえるであろうか。それは、確かにあらわな全体主義体制にたいしては民主的であったといえるのであるが、巨大化した国家官僚制の支配をもたらしたし、また、企業や学校や医療その他のあらゆる組織において専門家を頂点とする中央集権的なハイァラーキーを生み出したという点で、民主主義のありかたにおいて問題をはらむものであったといわねばなるまい。また、そこにおいては、官僚制的硬直化にたいする批判的対抗力として期待される動労運動でさえもがすでに体制の一部として制度化されたのであった。ニューディール型の民主主義体制においても、社会のあらゆる分野は巨大化した組織へと編成されたのであり、批判的対抗運動もシステムの存続を脅かすものではもはやなくなってしまった。その意味において、そこにもある種の全体主義と呼んでよい兆候が現れていたのである」(第3章「方法的序論」より)


総力戦体制の延長でシステム社会が出来上がったとする山之内は、このことを知の領域でどのように理解して向き合っていくべきなのか、戦後において主流とされた「社会科学」がある種当然の前提としてきた枠組みに積極的に疑義を呈している。


「社会科学は、本来、社会の非正常な状態を修正し、社会に望ましい正常状態を回復させるという課題を抱えている。・・・社会について客観的で確実な知識を獲得するという近代社会科学が疑うべからざる前提としてきた命題も、もはやそのままでは通用し難くなってくる。・・・不確実性は社会科学にとってあたりまえなものであり、正常な状態ということになる」(第4章「戦時期の社会政策論」)


ここで山之内の膨大な論考を一々紹介しきれるものではないが、大きな結論である総力戦体制が今日のシステム社会をつくり上げる原動となったとする考え方は、個人的にはある程度納得している。ただ、長らく日本社会を網羅してきた「システム社会」もコロナ禍以降の一連の流れのなかで、いろいろな綻びが目立ち始めているようだ。確かに内部において秩序を保ち得ていたものが、外部からの要因によって絶えず揺らされ続けており、システムも色々と検証して改善しなければならない事態に至っている。これをどのような方向にもっていくのかは、内部事情ばかりでなく外部環境のことも大いに考慮しなければならない。


さて、日本では安全保障、国防・戦略といった分野が、知の領域(学術の領域)において未だに社会科学としての一人前の扱いを受けているとは言い難い。それでも有事という「社会の非正常な状態を修正し、社会に望ましい正常状態を回復させる」ことを踏まえて、ウクライナ戦争以降の安全保障に向けてしっかりと立ち位置を持たねばならない時期にきている。ただ、確実なことなど何もいえないこの分野については、ミクロからマクロまで多くのことを可能な限り研究して、ベターと思える考えを案出して備えるしかないのも事実である。


冒頭でも述べたようにこの問題について、学者、評論家、記者、ジャーナリスト、そして元自衛官などが意見・見解を発信するようになっている。それ自体は歓迎するべきことなのだが、これらを建設的にまとめていく力がもっと働いても良いと思っている。それぞれの何かしらのプロフェッショナルとしての意見・見解が、限られた局面では妥当であっても全体としては不十分ということもある。たとえば、高官ポストを経験した元自衛官などが発するものには軍事的合理性や運用のリアリティを踏まえている部分で大いに聞くところがあるが、軍事的合理性とは別の政治判断やそこから考えなければならないシナリオのエンドステートなどを網羅することは期待できない。


政、官、財、軍、学、民などが集まった知の「総力戦」のもとで、安全保障を考えなければならないのだと思っている。ラテン語の格言に「汝平和を欲さば、戦への備えをせよ」とあるが平和国家を求めるならば今最も必要な言葉なのだ。なお、余談となるが、「民」の立場にある私は、今秋、明治大学リバティアカデミーで「教養としての戦略学「古典戦略思想から現代安全保障を考える」」をオンライン講座で行う予定となっている。私の限られた知識で、主に戦略思想の視座から現代の安全保障の局面を講ずることになるが、「民」の立場からささやかでも役割を果たしたい。


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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

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