温故知新~今も昔も変わりなく~【第103回】 半藤一利『幕末史』(新潮社,2008年)

小学校6年生のときの夏休み、自由研究の課題に「黒船来航」を選んだ。研究とはいっても小学生にできるのは、市立図書館に赴いて百科事典などをあたり、とりまとめていくくらいだった。それでも模造紙全部に黒船来航とそれが日本にもたらした混乱などをわかりやすく工夫して書き込み、夏休み明けにクラスで発表した記憶がある。なお、黒船来航は1853年、明治時代となるのが1868年、その間たった15年で長い間続いてきた体制がひっくり返り、新しい世の中となった。その緒となった黒船来航を自由研究のテーマに選んだ理由までは忘れてしまったが、黒船を前に狼狽する武士たちを知って妙に悲しくなったことだけは覚えている。


一般的に幕末史は人気があり、私もこの時代の歴史本を好んで読むことが多い。少しくだけた言い方になるが、歴史観にあまり拘らずに、幕府方、薩長連合のどちらかを「応援」「贔屓」しながら読んで歴史を論じても、つよい批難を受けることはまずない(近現代史となるとそれは難しい)。なお、小学生のときは妙に幕府を応援する気持ちがつよく、薩長連合にどの地点までなら勝ち得たかなど、兵力・火力・戦術・指揮官の違いを子供なりに調べて考えもした。


さて、幕末史を扱った本は多くあるが、自らの歴史観を堂々と宣言して書いているユニークな本がある。『日本のいちばん長い日』などで有名な作家の故・半藤一利の『幕末史』(新潮社)がそれだ。半藤一利といえば昭和史や近現代史をメインにした作品が多いので、同書は半藤作品のなかでもわりと珍しい部類に入る。ご本人の筆力のなせることか、それなりに重いテーマをどこか軽くして全体的に書ききっているのが流石だ。本の冒頭は次のようにはじまる。


「私は昭和五年(1930)に東京は向島に生まれました。日中戦争のはじまった昭和十二年に小学校に入学して・・・大日本帝国が降伏するまでの中学校三年間、まさしく戦前の皇国史観、正しくは「薩長史観」によって、近代日本の成立史を徹底的に仕込まれました。つまりは、“官軍”と“賊軍”の史観です。・・・ところが、それとはまったく違う話も悪ガキのときから、私は聞かされて育ったんです。というのは、わが父の生家たる新潟県長岡市の在の寒村に、子供の頃、身体を鍛えるために夏休みには毎年送り込まれました。ここにあった越後長岡藩というのは、ご存じのように、戊辰戦争において猛然と“官軍”に抵抗して、城下全体が焼け野原となった朝敵藩であったわけです。つまり“賊軍”です。それで祖母からは、それこそ耳にタコができるくらいにしょっちゅう、次のようなことを聞かされたのです。「明治新政府だの、勲一等や二等の高位高官だのとエバッテおるやつが、東京サにはいっぺえおるがの、あの薩長なんて連中はそもそもが泥棒そのものなんだて。七万四千石の長岡藩に無理やり喧嘩をしかけおって、五万石を奪い取っていってしもうた。なにが官軍だ。連中のいう尊皇だなんて、泥棒の屁みたいな理屈さネ」・・・」(はじめの章より)


半藤は「はじめの章」でこのように書き、歴史はいろいろな見方を可能とするもので、「反薩長史観」の立場から論じた歴史の見方を知っても損にはならないはずだという。なお、本書は幕末史と謳ってはいるが、最終章に近くなるにつれて明治以降を論じ、西郷隆盛が死するところまで行き着いて間もなく終わりとなる。「反薩長史観」という以上は西郷どんが渡世の幕引きとするところまで書かなければならなかったのだろうが、本書全体は「反薩長史観」とはいいながらも、極端に偏りがあるわけではなくバランスはとれている。


第1章は『日本のいちばん長い日』をモチーフにしたようなタイトル「幕末のいちばん長い日 嘉永六年(1853)ペリー艦隊の来航」であり、突如あらわれた黒船に右往左往する幕府とその周辺の人々のことが描かれている。全体の流れをわかりやすく書きながら、同時に関心の引きそうな細部を際立たせる手法のリズムがいい。


黒船が来航する可能性大とのインテジェンスは、実のところ来航よりも遡ること3年前からオランダを介して日本にもたらされていた。それにはペリー提督の名前は含まれており、来航の一月前には艦隊4隻が琉球に寄港し、小笠原周辺を調査して江戸に向かうといった具体的な情報が幕府中枢に到達していた。要するにその気になれば、鎖国を貫くための「お迎え準備」をする時間は十分にあったことになる。


嘉永六年6月3日午後5時、ペリー提督率いる4隻艦隊は浦賀の鴨井村の沖合に姿を現すと、そこからスピードを上げて一気に今の横須賀市の沖合1.5マイルにまで進み投錨した(1マイルは約1800メートル)。黒船をみた沖合の漁師たちが浦賀の奉行所に駆け込み、奉行は即座に配下の与力3名に命じて進発させ、そのときにオランダ語ができる通訳を1人伴わせている。与力たちは漁師が漕ぐ小船で黒船の下にたどり着き、談判を要請するも下級役人など相手しないとのアメリカの態度を前にスムーズに進まない。それでも粘り強く長崎への回航を要請し続けるが、ペリーの副官はアメリカ大統領の国書を徳川将軍に手渡すためにやってきたのに無礼だとして、場合によっては武力をもって国書を渡すといって脅しかけてきた(なお、ペリーはまったくこの場には姿を現さない)。


ところで、黒船が江戸を目指してやってくるとの情報を得ていた幕府は、事前にオランダ語ができる通訳を浦賀奉行所に2名配置していた。外交準備としてここまでは良いとして、武備については極めてお寒い状況が浮かび来る。当時、浦賀奉行の配下には与力十六騎、同心七十四人、若干の足軽、要するにお侍と呼べるのは百人程度。火力を持つ武器周りについて一例を挙げると、奉行の管制下にあった観音崎に据え付けられていた大砲の数は全部でたったの6門で、おまけに小型旧式で弾丸も15発を有するのみだった。なお、観音崎がこの程度でも江戸湾の台場はもう少しだけましで、数の上では約100門の大砲が配備されていた。ただ、そのうちの半数は日本式にいえば「1貫目砲」であり、対する黒船が備えていたのは「11貫目砲」(6インチ榴弾砲)などでまったく火力や射程で勝負にならなかったことになる。黒船が現れた初日の夜、アメリカ艦隊4隻が一斉に時報として大砲を撃ったとき、浦賀湾にズンとその振動が響き渡ったという。


黒船が来て開国を迫ることはわかっていたにも関わらず、幕府は事前に十分な準備をすることを怠った。一部の開明的な老中などはきちんとした軍艦をつくり防備を固めて向き合うべきだと献策するも、結局はそれを実行にまでは踏み切れずに終わっている。浦賀の黒船に対して、幕府は諸藩の力を借りて急ぎ防備を固めることにし、具体的には川越藩、忍(おし)藩、会津藩、彦根藩に命じて兵を出させた。もっとも命を受けた諸藩も黒船相手にどのように展開してよいか不明のなかで、とりあえず兵を展開したのが実態のようだ。長年の平和は戦闘に備えてどう動くべきかを忘れさせてしまったようだ。


「町は兵隊さんたちが走り回り、町人たちにもその影響は及び、江戸はさながら蜂の巣をつついたような騒ぎでした。福地源一郎(桜痴)さんの『幕府衰亡論』という面白い本がありまして、「海岸警備(といっても東京湾岸の警備です)を諸大名に命じたが、二百有余年の泰平に馴れた悲しさ、武具兵具とて満足になく、かれらはあわてて商人に武器を集めさせ、屋敷出入りの口入れ屋に足軽従卒の斡旋を依頼し、とりあえず頭数だけ揃えるなど前代未聞の醜態を演じた・・・」 とあります。これが当時の日本でした。・・・旗本も御家人もまた然りで、たいてい先祖伝来の武具甲冑などは天下泰平の間に失くしてしまったり、質屋に預けたりで手元にない。あわてて古道具屋にこぞって駆けつけたため、普通なら十両そこらの具足が七十~八十両したり、破れた具足でも二十両や三十両にはなり、壊れた武具を直すのに鍛冶屋も武具屋も大忙しです。逆に暇になったのが芝居、見世物、料理茶屋、遊郭であったそうで、まあいくらなんでも遊郭に行っている暇はなかったんでしょう。とにかく江戸市中はざわめきたって、いよいよ戦争になるというので夜逃げする人も出てきます。役人が止めても目をかすめて逃げ出す、そのための車力、駕籠屋さん、船宿なんかが大儲けだったそうです」(第1章より)


なお、このとき江戸ではやった歌に「ないないづくし」というものがあったという。

「「二百数十年もつづいてきた御規則(鎖国)を破りたくない。御威光も落としたくない。老中に外国人と応接できるものがいない。軍備が足りない。戦をする勇気がない。御体裁を失いたくはない。老中の決心がつかない。」すべてはないないづくしでございます」(第1章より)


結局、幕府はこの武力を背景にした外圧の前に屈して国書を受け取り、開国をしたことは教科書にも載っている通りだ。当時の世界は「弱肉強食」が一つのルールであり、現代は国際法の影響力を考慮したとしても、本質的な部分は大きくは変わっていない。相手の戦う力が弱ければ、無理な要求もしてくるし、拒否し続ければ力ずくでも事を運んでしまうことに躊躇しない国は今もある。こちらがこれだけ譲るから、そちらもこれを諦めてほしいというスタンスは、国益が大きく絡む局面では双方が互いに手ごわいと思い、衝突すればただではすまないと感じて成立するロジックだ。


話は幕末日本から現代日本に飛ぶが、政府は1000キロ程度の射程を持つ巡航ミサイルを1000発規模で保有することを検討中と最近報じられた。急速に厳しくなる安全保障環境に対して、適切な反撃能力を持つことで、日本への攻撃をためらわせるというのが理屈となっている。なお、参考までにいえば、中国は地上発射型の射程5000~5500キロの弾道ミサイル1900発程度、巡航ミサイルで300発程度を保有しているとされる。日本が検討している反撃能力の程度が、相手がなかなか手ごわいと思ってくれるかどうかは不明であり、「彼を知り己を知る」のはとても難しいのだ。


なお、黒船来航にもう一度話を戻すと、江戸湾の100門近い大砲(小型旧式大砲)による防備をみてもペリーはさして脅威に感じなかったようだ。それどころか、開国を拒否して戦争となりとても抵抗できないと思ったなら白旗を掲げよ、といってご丁寧に白旗を用意してみせたという逸話もある。脅威に感じるほどの備えがあったら外交の在り方が変わったかどうかを想像してみるのは十分に学問の範疇だと思う。そして、黒船来航の何年も前からインテリジェンスを掴んでおきながら、備えを怠った根本に何があるのか、何を学ぶべきかは現代にも通じるテーマである。


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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

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