温故知新~今も昔も変わりなく~【第111回】 幣原喜重郎『外交五十年』(中公文庫,1987年)

クラウゼヴィッツの『戦争論』に次のような一文がある。「戦争のうちには政治が背後に退いているものもあれば、政治がはっきりと前面に現われているものもある。しかしそのいずれにせよ、戦争が政治的であることに変りはない」。


先行きが不透明なウクライナ戦争もまた政治的なものであり、ロシア、ウクライナ双方に様々な軍事的現実がみえても戦争の終わりについてなお予断を許さない。戦争が始まる前と今では政治的な状況が大きく変化し、方々で戦闘が展開されているなか、当事国、関係国が調整して戦争を終わらせるのは難しくなっている。


仮に一定の軍事的成果が確保され、戦闘に終わりの兆しがみえても、外交における政治的な駆け引きで戦争が終結するまでの道筋が平坦なものになることはまずない。戦争当事国がどのような国家体制であったとしても、政治家や外交官は国益と国民世論の狭間で苦難に直面することになる。


現在進行形のウクライナとロシアの戦争ではなく、昔日、日本とロシアが戦った日露戦争

において、戦闘が一旦終わってから講和条約へとたどり着くまでには、多くの摩擦と紆余曲折があった。日露戦争については多くの研究者によって専門書が出されており、それらから史実細部を学ぶことも良いが、当時、講和へ向かう外交実務に関与した人間の回顧録を読むのもまたリアリティが浮き彫りになり学ぶところがある。そのような一冊として幣原喜重郎の回顧録である『外交五十年』を挙げたい。


幣原喜重郎といえば国際協調路線を追求した「幣原外交」というレッテルが有名となっている。1872年(明治5年)大阪府門真に生まれ、東大法科を経て外交官となり、順調に出世を重ねて1915年に次官に就任して3代の内閣で5人の外務大臣に仕えた。その後19年にアメリカへ大使として赴き、24年に加藤高明内閣の外務大臣となり、以後、若槻礼次郎、浜口雄幸などの内閣で通算5年以上その地位にあり、職責を果たした。また、大東亜戦争直後に短い間であるが総理大臣も務めている。


『外交五十年』は、新聞連載のエッセイとして幣原が口述筆記させた原稿が元となっている。戦後となる昭和25年から61回にわたって読売新聞に掲載されたが、これらが幣原自らが語るという意味で唯一の回顧録となった。本書では、幣原を有名にしたワシントン体制下での活躍から、戦後、占領下での米兵とのほっこりエピソードまで色々と言及されている。そのなかでも、幣原がまだ外務省の中堅幹部、電信課長としての任にあったときに、日露戦争の終結に関わったエピソードが「樺太を拾った話」というタイトルで語られており、それは歴史の一コマを証言した内容となっている。


1904年に始まった日露戦争、翌年2~3月にかけて行われた奉天会戦において、日本陸軍はどうにか勝利をおさめることができた(日本海海戦はこの後の5月)。ただ、実のところ本会戦の後、陸軍の戦力は各師団ともにかなり損耗しており、前線を担う将校の補充などは、陸軍士官学校などを繰り上げ卒業させてもなお間に合わなくなっていた。現地において参謀総長を務めていた児玉源太郎大将からのこれ以上の戦争の継続は難しいとの意見があって、政府が重い腰を上げて講和へ向けて動き出し、外務大臣の小村寿太郎がアメリカのポーツマスでその任にあたったことは良く知られている史実だ。


講和会議での交渉において、朝鮮半島を巡る日本の裁量権、日露両軍の満州からの撤兵、遼東半島の租借権、ハルビン・旅順鉄道の譲渡などはどうにか妥協点を見出したが、賠償金と樺太割譲の問題については難航した。この二つの問題を貫くべきか、諦めるべきかを巡り最高意思を決定しなければいけない御前会議を控えた前日の深夜、伊藤博文(枢密院議長)、桂太郎(総理大臣)、山本権兵衛(海軍大臣)、寺内正毅(陸軍大臣)、珍田捨巳(外務次官)、といった政府首脳が集まり、すり合わせをしている。そこにポーツマスの小村に伝えるために電信課長として実務を担当していた幣原がおり、当時のやり取りを目撃し証言している。


「伊藤公は、よく人を馬鹿にするようなことをいわれる人だが、その晩は非常に真面目であった。そして一同を見回して、「今日は重大な問題を決定しなければならん。外務省の受けた電信の写しは、皆さんのところへ回してあるはずだが、要するに償金と割地の問題が非常に難物だ。これでどうしても日露講和会議の議が纏らん。それで会議を打ち切るかどうかということを小村から請訓して来ている。今晩これを決めなくてはならん。どうするか」

今晩決めるというのだが、もう十一時である。その決定を明日の御前会議に出し、山県公その他の元老の議を経なければならないという。非常に差し迫った相談である。それに対して、一番に口を切ったのは山本権兵衛さん。「償金の問題は、これを放棄してもよろしい。われわれは金を取るために戦争をしたのではありません。償金などは一文も要らん。しかし土地の方は、現に樺太全体を日本軍が占領している。それをロシアが引退れというのは、既成事実を無視するものであるから、樺太の割譲はあくまでも主張し、目的を貫徹すべきであると私は思う」こう言い出した。他の人たちは皆黙っている。黙って沈痛な顔をしてうつむいている。そこで伊藤公は山本さんに向って、「それじゃ、君の説によると、日本が割譲を主張してロシアが譲らないと、結局戦争を継続するということになるだろうが、それには覚悟があるか」と反問された。そこへ行くと山本さんは一番強気だ。日本の海軍は、日本海の海戦でロシアの艦隊を撃滅しているのだから、いくら戦争を継続しても差支えない。その席に大蔵大臣などいなかったし、誰も山本さんの説に不同意を唱える者はなかった。伊藤公はしばらく考えておられたが、「それではそう決めるか」と言って私に、「幣原、お前その意味で回訓案を書け」と言われる。書いて出すと、伊藤さんは大きな声で、「何々はア・・・」という調子で読み上げる。そして、「ちょっと待て」といって、文句を修正されたりして、「みなこれで異議はありませんか」という。即座に「異議なし異議なし」という具合には行かなかったが、とにかく「それは止むを得ますまい」ということで、一応議が纏った。午前二時過ぎであった」(第一部)


この後で、幣原は本省に戻り徹夜で仕事をこなし、御前会議で決定がなされたら即座に電信を送れるよう、暗号化も済ませて本省で待機していた。ところが、御前会議では先の案がひっくり返り、賠償金も樺太割譲も要求すること自体を撤回するということになった。これを聞いた幣原は、伊藤たちが真剣に決めた内容がひっくり返ることに感情的な苛立ちを感じながら、しぶしぶ命令に従い電信を組み直してポーツマスにいる小村に送った。ところが、この直後に、今度は在日イギリス大使館のマクドナルド大使から外務省に、樺太半分であればロシアが割譲を認めることを匂わせる情報がもたらされた。こうなると、先に小村に送った賠償金も樺太譲渡も放棄するという訓令は至急取り消されるだろうが、政府が正式に方針を決めるまでにはまた多くの時間を弄してしまうことになる。そこで、幣原は免職を覚悟しつつ独断で、新たな電信が到着するまで間、先の訓令の実行は延期されたいとの内容を小村に向けて発した。


小村は講和会議に出かけようとした矢先にこの電信を受け取り、仕方なく仮病を使って会議をキャンセルした。日本政府が正式に南樺太のみの割譲を要求する方針を決定した後に、再度交渉を行い、ロシアの全権のウィッテも同条件を承諾して妥結した。幣原の機転が結果的に功を奏したことになる。ただ、多くの犠牲を出しながら戦いに勝利をおさめたものの、倍償金は取れないことになり、それは日本世論の激化を招き、日比谷焼き討ち事件などに繋がった。ちなみに、樺太占領自体は、奉天会戦(05年2~3月)、日本海海戦(同年5月)を経て、アメリカ大統領による講和勧告があった後の05年7月、日本政府が講和交渉を有利に進める目的でもって行われた。これが日露戦争の最後の戦いとなっている。


戦争後の講和を有利に進めるためにも、武力でもって土地や領土を積極的に占領・奪回に進みゆくという考え方は、現在の日本には存在しない。しかし、こうした論理は今もなお世界のなかでは生きており、ウクライナ戦争の行く末もこうした側面を考慮しておく必要もあるだろう。仮に即自に講和や停戦となったところで、力ずくで奪回できていないものを交渉で取り返すことはまず難しい。他方で、奪回したことで、今度はそれが双方の足かせとなって講和自体が進まないこともある。この軍事的勝利と政治的問題との狭間で戦争のエンドステートは難問を孕むことになる。先に引用した幣原の文章のなかで、伊藤博文と山本権兵衛のやり取りなどは戦争が如何に政治的なものであるかを想起させ、その難しさを十分に知らしめるものだとも思う。クラウゼヴィッツの「戦争が政治的であることに変りはない」という言葉は非常に重々しく聞こえてくる。


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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

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