温故知新~今も昔も変わりなく~【書評・第113回】 プラトン『ソクラテスの弁明』(納富信留訳,光文社古典新訳文庫,2012年)

市民が主役たるその政体において、情状酌量の余地があることをいかに上手に彼らへ訴えるか。それは、古代ギリシャのアテナイにおいて法廷に引きずり出された者たちが、無罪を勝ち取るための重要な戦術の一つであった。紀元前8世紀頃に成立したポリス、その筆頭となったアテナイは貴族政から民主政へと移行するなかで、市民が政治に直接参加するための制度が徐々に整えられた。


最高議決機関である民会が持つ権限は大きく、ここでは国家にとって重要な案件が論じられ、外交、戦争、軍事行動などが含まれた。市民権を持つ成年男子は、民会への出席、発言、投票の権利を認められ、演壇の上で演説する市民有志たちの意見を聞いた後で彼らは票を投じた。民会にどのくらいの人びとが参加していたかは諸説あるが、遺跡として残っている民会議場のキャパからも6000人くらいが限界であったとされる。


議事進行の在り方はシンプルで、議長団の指示のもと伝令が議題を読み上げて、市民たちからの発言を求める。意見ある者はその旨を大声で告げ登壇して滔々の演説をはじめる。一人目の演説が終わると、その後も次々と新たな演説が続くことになった。演説者同士が演台で対話や討論をすることは基本的になく、演説というモノローグの連続が聴衆の歓呼、喝采、野次、怒号を伴奏にしながら進んだ。


ときに聴衆がエキサイトするあまりこれらの声が大きくなって議事は暫し中断されたが、物理的なつかみ合い、殴り合いといった乱闘事案に至ったとの言及は史料には一度も出てこない。民会は演説者とそれに反応する聴衆の熱気が次第に高まり、そして採決に持ち込まれるのが常であったようだ。なお、この民会議場の遺跡はパルテノン神殿を臨むことができる地にあるが、今日では観光客はほとんど訪れることがない。


さて、立法や行政の機能を担う民会とは別で、司法の機能の一つである裁判はどうであったかといえば、これもまた民会の雰囲気とその延長で行われていた。司法機関の一つとして民衆裁判所(ヘリアイア)と呼ばれるものがあったが、これは多くの訴訟の最終審を担うものだった。公職にある者が国家や市民の利益を損なう疑いがある犯罪をおかしたとき、市民が告発し、それをこの裁判所で訴追する権利が認められていた。告発をした市民は自ら検事役となり、被告となった側の弁護人役はその友人や縁者が務めることになった。


定員6000人の裁判員は市民から抽選で選ばれ、その事件の重要性に応じて法廷に参加する裁判員の数は変化した。裁く側の一般市民は原告・被告それぞれの限られた持ち時間で行う弁論を聞いた後、無記名秘密投票で判決を下すことになった。被告は限られた時間で理を尽くして論理的に弁明するよりも、裁判員らに情状酌量の余地ありと思わせることが巧く逃げ切る上で有利となっていた。同情を買うために、身内や知り合いを証人として呼んで憐みを誘う発言をさせ、自分に幼い子供がいれば連れてきて泣かせるなど、気位の高い人であれば耐えられないような戦術を駆使することが多くあったといわれる。


ところで、この民衆裁判所(ヘリアイア)は、哲学者ソクラテスに対して死刑判決を下した存在としても有名である。アテナイはスパルタと30年近く戦ったペロポネソス戦争に敗れ、政治的に混乱を経て衰退しはじめて余裕を失っていた時代、老境にあったソクラテスは公職に就いていたわけでもなかったが、民衆訴追によって法廷に引きずり出された。その告訴状には次のような告発内容が記載されている。


「ソクラテスは、ポリスの信ずる神々を信ぜず、別の新奇な神霊(ダイモーン)のようなものを導入することのゆえに、不正を犯している。また、若者を堕落させることのゆえに、不正を犯している」(訳者まえがき――『ソクラテスの弁明』を読む前に)


当時、神に対する不敬は大きな罪であり、ソクラテスは限られた時間で多くの裁判員を前に弁明をしなければならなかった。なお、ソクラテスといえば、人々と対話をなして徳のあり方を探求したイメージが強いが、それ以外のプロフィールを簡潔に付記すると、紀元前470年生まれ、生業は石工、妻と子供を持ち、生涯で一度だけ公職に就いてそれを公正に務め上げ、祖国のために戦争に幾度か従軍し勇敢に戦い、晩年に民衆裁判で有罪死刑を宣告され紀元前399年に毒杯を自ら飲んで刑を執行している。


『ソクラテスの弁明』は、民衆裁判においてソクラテスがどのように弁明したかを記すもので、プラトンの作品としては初期のものとなる。書かれている内容とソクラテスが実際に弁明した事実がどのくらい一致するのか、プラトンによる創作がどのくらい含まれているのかなどこまかな議論はあるが、概ねが事実のようだ。そこでは、既に70歳に達していたソクラテスが、裁判員からの同情を買うような戦術は一切とらずに、彼への告発がいかに不合理かつ不条理であるかを堂々と弁明し、裁判員と実質的に対決をするような形をとる。作品の冒頭は告発者が演説を終えた直後から書かれている。


「・・さて、この人たちは、今言ったように、真実はほとんどなにも語りませんでしたが、あなた方は、私から真実のすべてを聞くことになります。でも、ゼウスの神にかけて、アテナイの皆さん、皆さんがお聞きになるのは、この人たちが語ったような美辞麗句で飾り立てられた言論でも、多彩な語句や表現で整えられたものでもなく、思いついた言い方でテキトウに語られるものとなるでしょう。それは、私は自分が語る中身が正しい、と信じているからです。ですから、あなた方はどなたも、これ以外の語り方を期待しないでください。おそらく、皆さん、若い連中のように言論をでっち上げてあなた方の前に進み出るのは、こんな歳になった者には相応しくないでしょうから・・」(第一部 告発への弁明)


ソクラテスは対決姿勢を鮮明にし、ここから長い弁明をしていく。それは自らが神に対する不敬を働いているとの告発自体が、論理的に矛盾していることを明らかにし、若者を堕落させているなどといった言い分は、知恵を愛する人間に耐えられるものではないとしてそれを真っ向から否定していく。そして、人々に対して真実を話すことが、その人たちが自らの無知を知らしめられて羞恥を感じ、その反動から憎悪や中傷を呼び覚ますのだといった構造も明らかにして述べていく。


ソクラテスは、当初は、告発以前から自らに向けられた憎悪や中傷に対して弁明し、次第に告発者に対しての弁明をする形で進めていくが、それらは結局のところ聴衆でもある裁判員に対しても生き方を鋭く問うようなものになっている。本作品のなかで野次や怒号などはいちいち描かれないが、ソクラテスの弁明が裁判員に対して一切媚びることなく、信じる道を貫き、その生き方を変えられないことを弁明していく過程は、裁判員500名の雰囲気を変えていったことは想像に難くない。


「・・アテナイの皆さん、私はあなた方をこよなく愛し親しみを感じています。ですが、私はあなた方よりもむしろ神に従います。息のつづく限り、可能な限り、私は知を愛し求めることをやめませんし、あなた方のだれかに出会うたびに、勧告し指摘することをけっしてやめはしないでしょう。いつものように、こう言うのです。『世にも優れた人よ。あなたは、知恵においても力においてももっとも偉大でもっとも評判の高いこのポリス・アテナイの人でありながら、恥ずかしくないのですか。金銭ができるだけ多くなるようにと配慮し、評判や名誉に配慮しながら、思慮や真理や、魂というものができるだけ善くなるようにと配慮せず、考慮もしないとは』と。もしあなた方のだれかがこれに反論して、自分はきちんと配慮していると主張したら、私はその人をすぐに立ち去らせることなく、私も立ち去らずに彼を問い質して、吟味し論駁することでしょう。もしその人が徳を備えていないのに、もっていると主張しているように私に思われたら、もっとも価値あるものを少しも大切にせずにくだらないものを大切にしていると、その人を非難することでしょう。このことを、若者でも年長者でも、私は出会った人に行うのです。他所の人にも街の人にも行いますが、私に生まれが近い分、この街の人々により一層そうするでしょう。これは神が命じておられることなのです。よくご承知ください」(同)


弁明を終えた後、まずは有罪無罪を問う票決に入る。500票の内、有罪が280票、無罪220票くらいで、わりと僅差であったが、これに圧倒的敗訴を予測していたソクラテス自身が驚く。有罪が確定したことで、裁判は具体的な量刑を決める次の段階へと進む。告発者は死刑を求刑しているが、被告側が死刑という「極刑」まではいかなくとも、アテナイからの「追放」などの重い量刑を提案し、それらの両者で再度票決を問うこともできた。そして、先の票決が僅差であることを考えれば、この時点で情状酌量を巧く訴えれば追放刑で終わる可能性は充分にあったようだ。ただ、ソクラテスは善くあろうとする生き方が問題となっており、そこに自らが受けるに値する量刑あるとすればとして次のように述べる。


「・・・一体何を受けるのに値するのでしょう。なにか善きものでしょう、アテナイの皆さん。もし真に値するものに応じて刑罰を申し出るべきならば。・・・ですから、もし正義にそくして私に値する刑罰を求めるべきなら、これを申し出ます。つまり、プリュタネイオンでの食事です」(第二部 刑罰の提案)


プリュタネイオンとは、外交使節、各種競技会での優勝選手といった要人に無料で食事を提供している会堂であった。ソクラテスは自らが具体的な刑罰を受けるとすれば、そこでの食事を頂くことに値するといったことにある。この後で、ソクラテスは友人たちの懇願を受け入れて仕方なく形式的な罰金刑を申し出るが、ソクラテスに同情的であった裁判員もこのころには彼の態度に反発を覚え、票決は360票対140票で死刑と決まった。先に無罪票を投じた人々の三分の一が今度は死刑に票を投じた計算になる。判決確定後、ソクラテスは去ろうとする聴衆に対して長い演説を行う。


「・・・手立てがなくて有罪になったのは間違いありませんが、それは言論の手立てではなく、大胆さや恥知らずな心、そして、あなた方が聞いてもっとも悦ぶようなことを言うつもり、そういった手立てをもたなかったからです。私が嘆いたり泣き叫んだり、他にも私に相応しくないと主張しているような多くのことを行ったり言ったりするのを聞けば、あなた方は悦んだでしょうに。そういったことを他の人たちから聞くのに、皆さんは慣れているのですから・・」(第三部 判決後のコメント)


死刑執行は諸般の事情で一月遅れることなり、ソクラテスはその間牢屋で弟子や友人たちに語るべきことを死刑執行の直前まで説く。それは『パイドン』といった作品のなかで書かれている。なお、ソクラテスが死刑に処された後もこの裁判の結果はポリスに様々な影響を与えた。ソクラテスを処刑したことを後悔したアテナイ市民は、ソクラテスを告発した一人である詩人のメレトスに、今度は法廷で死刑の判決を下したともいわれている。当然ながら、これがポリスにとって善きことかどうかを市民たちは十分に吟味したかどうかはわからないし、それに対話でもって応えてくれるソクラテスはハデス(冥府)に向けての旅立ちを終えていた。


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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

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