温故知新~今も昔も変わりなく~【第115回】 石光真清『城下の人~石光真清の手記』(中公文庫,1978年)

孫子に「密なるかな密なるかな、間を用いざる所なし」という一文がある。軍事にとって諜報がどれほど大切かを語るこの一文は、間諜(スパイ)が収集した情報を、政治・軍事のトップが活用する次第を論ずる文脈のなかにある。孫子は情報活動・諜報工作に対して肯定的であり、戦略・作戦レベルにおいて重要なものとして位置づけている。孫子自身もまた軍師として多くの情報活動・諜報工作を仕掛けたであろうが、その実態はよくわかっていない。


インテリジェンスという用語も一昔前に比べれば馴染みのあるものになってきているが、それでもこうした領域で実際に関わった人物が実態を明かす例は限られている。ジャーナリストや研究者が、公開の控えられている情報にギリギリまで取材や研究を真摯に行って生み出された成果物には良質なものもあるが、同時に、胡散臭い人物や代物が多く満ちているのもこの領域のようだ。


ある情報について真偽を確かめようがない状況に置かれた場合、個人レベルで出来る対策の一つは、きちんとした教養に裏打ちされた常識に基づいて判断することだと思う。そのための平素からの訓練の一つとして、たとえば、諜報に従事するスパイがどれほどのことが出来るものなのか、その限界線はどのあたりかなどを知るために、古今東西の良質な関連本に多少なりとも触れておくのが良いのかもしれない。


日本のインテリジェンス史の黎明期、日露戦争やロシア革命などの時期に活動した石光真清という人が残した手記がある。この人物を端的に紹介すれば、日露戦争開戦前に現役の陸軍将校から予備役将校に転じ、民間人「菊池正三」の変名でロシアの沿海州やシベリアを中心に情報活動を行った人である。この時代の諜報といえば陸軍の明石元二郎中佐(後の第七代台湾総督)がスター的存在であり、当の本人が報告書として陸軍に提出した「落花流水」をはじめ、彼についての研究書は多くある。しかしながら、石光真清については当人の手記が出版されてはいるが、研究も少なくあまりスポットが当たってこなかった。


石光の手記は『城下の人』『曠野の花』『望郷の歌』『誰のために』(中公文庫)の4部作で構成されているが、真清の死後、遺稿が息子の石光真人の手によって編纂され出版されたものである。この人がどのような生まれで、如何なる育ち方をして、何を思って軍人となり、そこから諜報の世界に身を転じて、何に努めたかの克明な記録は多くを学ばせてくれる。4部作の一冊目となる『城下の人』は、真清の少年時代から始まり、青年将校として日清戦争で実戦を経験し、その後、国防のためにロシア研究に思いを致すところまでが語られている。


「私は時代的にも、家庭的にも、光輝ある年に生れた。父はその頃、熊本細川藩の産物方頭取として全盛の時代であり、藩公から頂戴した御殿跡に居を構えて、明治の新政を迎えた。鎖国日本三百年の扉は、志士たちの手によって押しひらかれ、錦の御旗が新時代の足音に囲まれて、東進しようとする明治元年八月三十一日、私は生れたのである」(夜あけの頃1)


明治維新を迎えて世の中の在り方が急激に変貌を遂げていくなかで、旧きものを守ろうとする者、新しきものを取り入れようとする者の間で摩擦や衝突は様々に現れた。その両者に対して寛容であり、教育熱心でもあった真清の父は、子供たちに漢学や英語などを柔軟に学ばせている。当時、熊本は士族たちによる神風連の乱が起き、続く西南戦争でも政府軍と薩軍が熊本城を巡って激しい攻防を行った時であり、真清は戦争や軍事というものを身近に感じながら少年時代を過ごした。そこから自然と軍人を志し、東京の陸軍幼年学校へと入学している。


「人は苦しみにも馴れるが、楽しみにも狎(な)れるものである。東京に初めて出た時の驚きも、軍学校に入ってからの厳しい訓練も、或は母や妹たちが揃って上京して来た時の嬉しさも、兄真澄の三回に及ぶ不幸な結婚の結末も、いつか慣れ忘れて、その頃から平凡な生活が続いた。明治十九年九月、幼年学校を卒業して士官学校生徒を申付けられた。・・私は橘周太君の意見を容れて歩兵科に入った。・・」(若い人々3)


なお、この自伝は私小説のように書かれており、いちいち取り上げはしないが、登場してくる人物たちとの会話の描き方が魅力的でもある。士官学校を無事卒業して、近衛第二連隊付となった真清は、ロシアのニコライ皇太子が来日中に暗殺未遂にあった「大津事件」の際、警備のための部隊動員などを経験しながら、ときに近衛師団らしい任務に就いている。


「「皇后陛下葉山行啓の供奉を命ず」という辞令が近衛参謀歩兵少佐緒方三郎、歩兵中尉勝野直太郎と、歩兵中尉であった私の三名に下付されたのは、朝鮮の内乱にからんで日清両国の国交が危機に面していた明治二十七年七月であった。大津事件で大ロシア帝国の東漸に肝を冷やした日本は、あれから僅か三年の間に局面は転回して、眠れる獅子として怖れられていた大清国の圧力を受ける運命になったのである。供奉と言えば近衛将校としては、まことに名誉の任務であって、平時ならば同僚に対しても肩身の広いことであったが・・・」(天皇と皇后4)


有事となれば動員がかかる情勢で、皇后陛下のお付きの女官たちについて回ることに内心は複雑な心境であったことを告白している。皇后陛下に供奉するといっても、皇后を取り囲む女官たちから10歩後ろに下がり、軍刀をガチャガチャと音を立てないように静かについて回るのがお決まりとなる。お出迎え、お散歩などに供奉する以外は待機が主たるお勤めであった。女官たちとは毎日顔をあわせても、会話をすることは許されず、一月もこの生活が続くのかと気がめいったという。それでも海岸をお散歩されている皇后と女官が貝拾いをなされているとき、真清が直接にお声をかけられたシーンが印象深い。


「ある日のことであった。波打際に遠くからピカピカ光っているものがあったので、近づいて拾うと、それは栄螺(さざえ)の心棒で、よほど波にもまれたものらしく、上下の端も丸く磨滅していた。ねじれた心棒は真珠色の肌に赤や青の光を反射して美しかった。私は退屈している緒方少佐と勝野中尉を呼んで自慢した。・・・フト気がつくと、陛下と、陛下を取りまく女官たちが私たちの方に向き直って眺めていた。私はあわてて緒方少佐の尻をつついて注意した。三武官が不動の姿勢をとると、陛下は紅葉の局に命じて、私が正に棄てようとしていた栄螺の心棒を所望された。どうなることか・・・と眺めていると、陛下は栄螺の心棒をしばらく見ておられたが、それを指の先につまんだまま、私どもに近づいて言われた。「これは栄螺の心棒です。よほど永い間、磨かれたものでしょう。人間も同じように辛抱強く磨かれねばなりませぬ。辛抱が大切です。これは記念のために子安貝と一緒に保存しておきます」」(同)


真清のここまでの足跡は、家庭一般の問題などに人並みに悩まされはしながらも、それでも比較的平穏なものであった。ただ、これが日清戦争を境として大きく変わっていくことになる。中国大陸へと派遣された後、転戦するかのように台湾へ派遣され、将校として小部隊を率いて実戦指揮を経験することになる。


初めての実戦下での緊張で、突如と銃声が耳から遠のき、視界も急激に狭まるという錯覚に陥りながらも、軍刀を抜いて突撃号令をかけて突っ込む。そして、後になって気が付くと手に握られていたのは軍刀ではなく掃除用の棒切れであったことなどを隠さずに告白している。加えて、かの地では、敵の火力以上にコレラやマラリアに斃れていく味方の将兵について述べている。そして、自らもコレラに罹患して死線を越えそうになりながらも、忠実な部下による凄まじい荒療治でどうにか回復できたことなど、生々しい筆致で綴られている。


戦地から帰り再び平穏な暮らしに戻るかと思えたが、このあたりから生活は大きく変化していく。真清は、金鵄勲章を受け、お見合い結婚をし、地方の部隊で勤務となる。毎日が決まった日課をこなすのが仕事であったが、清国との戦争を終えても、次はロシアに備えなければならないとの気持ちが真清のなかに日に日に高まっていく。


「国と国との、民族と民族との、生きる戦い、子孫のための戦いの激しさを、私たちは血煙と絶叫のうちに、見せられ聞かされたのである。やがては、大ロシア帝国の侵略に脅かされて、再び国の命運を賭けて戦わねばならない時が来るであろう。・・・私はロシア研究の必要を感じた。当時軍界にあって、ロシア研究に手をつけ始めた人は、・・二、三の人々に過ぎなかった。そう決心すると、持前の性分で我慢がならず、その頃飯田橋附近でニコライ神学校出の荘司、小西等がロシア語教授を始めたのを聞いて、私はすぐ入校し、軍務の傍らロシア語の初歩を習い始めた」(夢と現実1)


ロシア研究のためにロシア留学を実現させようと色々なところに働きかけ、真清はそれをつかみ取りウラジオストックに上陸したところで『城下の人』は終わりとなる。この続きとなる『曠野の花』ではロシアでの本格的な情報活動が語られていく。同書については改めて書きたいと思うが、そこで告白されている足跡は諜報に従事する生き方の厳しさ、正道と獣道が交差するような道すがらで、海千山千の人々の様々を読み手に知らしめてくれる。ただ、そのような道中を支えた道標は、『城下の人』で扱われる時代に真清が培ったまっとうな常識であったと感じている。


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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

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