温故知新~今も昔も変わりなく~【第123回】 マキァヴェッリ『ディスコルシ(ローマ史論)』(ちくま学芸文庫,2011年)

マキャベリとのお食事会

東京に「マキアヴェリの食卓」というレストランがある。通りすがりに看板を見ただけで、訪れたこともないから論評は一切できないが、HPなどみるかぎりお洒落な雰囲気で美味しそうなイタリアンを出すお店のようだ。以下、このお店と一切の関係ない話だが、「マキアヴェリの食卓」という文脈からイメージされてしまうのは、暗い雰囲気の男たちが、いつ暗器(凶器)に代わるとも限らないフォークとナイフを手にして、退屈そうに冷めた料理を突きながら権謀術数の立て込んだ話ばかりしていそうだ。たとえば、君主政を転覆させて共和政にしたほうがよいか・・・それとも、共和政に対してクーデターを起こして君主政もどきにしたほうがよいか・・・一体どちらが優れているのだろうなどなど。


ヒューマニズムは幻想

倫理的に問題があるとしても、結果的に利益をもたらすのであれば良しとするマキャベリズムの用語で有名なニッコロ・マキャベリ。彼は15~16世紀にかけてイタリアの都市国家フィレンツェにおいて、職業人としては前半生を政府の役人、後半生を著述家として生きた人だ。

マキャベリの人間観は、いわゆる性悪説という言葉で表せるもので、人間の本質は野心と貪欲だとする。そして、その政治哲学は、こうした人間が共同体で自然と秩序をつくり出すことは期待できないのであり、代わりに、人間の外側から力や恐怖を駆使することで服従をさせてはじめて秩序が生み出されるとする。ヒューマニズムなどが支配する共同体や国家というものは幻想にすぎないのであり、力を強制的に用いる国家が必要だと考えた。

マキャベリは共同体や国家の中核にいて権力を握る人々・権力装置を「ステート」(state)なる言葉で呼ぶ。現代では単純に国家と訳されることが多いが、それは19世紀以降のことで、この時代は共同体や国家ではなく単純に権力を意味していた。なお、この権力とは道徳的倫理的な要素は含まず、そうしたものとは無縁のむき出しの専制支配を指している。

このステートが有する外部からの強制力が、マキャベリの思想的な一つの核心となっている。そこには古代のプラトンにみられるような理想主義的な共同体や国家を考えるような方向性はなく、人間が持つ理性的な要素を開花させるような機能を国家には期待しえないものだった。マキャベリは政体について君主政と共和政の両方を長い時間をかけて咀嚼していくように幅広く論じているが、結局のところどの政体が一番よいかについて態度を明らかにはしていない。


『君主論』の世界観

マキャベリの作品のなかで最も有名な『君主論』は、君主政のもとで権力の掌握と維持がどうすれば可能かについて論じ、その手段としての軍事を述べ、君主がいかにそれと向き合うべきかを展開している。そのエッセンスを一言でいえば、君主は奸智と強制力に長けており、自らの権力を維持するためには法と力の両方を巧みに使い、必要とあれば信義、慈悲、人間性、宗教にも反して行動しなければならないと喝破している。

君主にとって必要な基盤は「良き法律と良き軍備」であり、その政体を守るための軍隊の種類について自国民で構成された自国軍、この時代の標準でもあった傭兵軍、外国からの援軍、それらが混ざった混成軍などを説明していく。その上で、傭兵軍と援軍は頼りにならずリスクを孕むものとする。君主の仕事というのは、戦争を行うこと、それを可能にするための軍制を整えること、軍事訓練を施すことだとする。また、君主は歴史書をしっかりと学び、歴史上の人物たちが戦争においてどのような作戦をとったかに通じ、その勝因と敗因を知った上で自らがそれを巧みに使いこなせるように努めて、変わりやすい「運命」(運命の女神・フォルトナ)に備えねばならないとする。

マキャベリの「運命」に対する考え方は当時からすれば異質であり、それはこの『君主論』のなかでも言及されている。この時代、世の中のことは神が定める「運命」に支配されていると考えるのが普通であったが、マキャベリはこの考え方をとらなかった。物事の半分は運命を司る女神に支配されとしても、残りの半分は自由意志でどうにでもなるとして、君主は慎重であるよりも力によって運命を引き寄せる強さを持たねばならないとする。この考え方は『君主論』に限ったものではなく、同時期に書かれた『ディスコルシ』でも基本的には貫かれている。


『ディスコルシ』(『政略論』)の国家観

『君主論』と比べるとマイナーな存在である『ディスコルシ』(『ローマ史論』・『政略論』とも呼ばれる)は古代ギリシャやローマなどを主なモデルとしながら、共和制を中心にそれぞれ他の政体のもとで権力の在り方や国家運営の仕方について展開している。ちなみに『ディスコルシ』は『君主論』に比べて分量こそ多いが複雑な論理展開でもなく時間をかければ通読するのは難しくはない。『ディスコルシ』では、マキャベリは当初、古代ローマの在り方の称賛をおこない、国民によって支持される健全な共和政を肯定的に描き、貴族階級と平民階級の闘争なども結果的にはローマの共和政を健全にしたという態度で筆を進めいてく。ただ、そのトーンは章が進むにつれてしだいに弱められていくのだが、これはこの『ディスコルシ』と並行して書かれていた『君主論』の影響ではないかといわれている。

『ディスコルシ』では国家が持つ性質をどのように捉えているかといえば、それは政体の形態に関係なく領土や覇権を拡大していくのを目論むもの、現状維持を目指すものなどのタイプにわかれると論じている。そして長期間にわたって国家が存続するためには、侵略しにくい地形を選んで都市をつくり、国内を整備して、他国からみて容易には攻略することができないと思わせるに足る充分な防衛力を保持するべきだと論じている。
しかしながら、それがあまりに強大化してしまい、周辺国が過度に脅威を感じて警戒心を高めさせてしまうのは得策ではないと釘をさしている。その理由について「征服」といった言葉を持ち出してマキャベリは『ディスコルシ』のなかで次のように言及する。

「国家に対して戦争をしかけるためには、二つの動機が認められるからだ。その一つは、征服して支配権を獲得するためであり、いま一つは、自分が征服されまいとする恐れから出るものである」(第1巻6章)

したがって、国家が適切な防衛力を有していれば、他国がそれを侵略して征服しようとするリスクは低減させられる。加えて、その国家が理念や法律などによって領土拡大などを明確に禁止すると高らかに宣言して、他国にそれを周知するべく努めていれば、戦争自体が起こらずに、マキャベリがいう模範的な政治生活や真の平和も望みえるともいう。


宗教も手段として利用

そのように言いながらも、世の中の「運命」は移ろいやすく常に理性的であるわけでもなく、周辺の情勢次第では領土不拡大など放棄を迫られ、そうなれば国家の基礎がぐらつき根底から変わってしまうものだとしてその平和の望みも打ち砕いてもいる。
マキャベリの叙述スタイルの特徴でもあるが、一つの方向性を明示しておきながら、同時に逆の可能性へと急展開させる傾向がある。有り体に言えば、権力といったものを除いて、何かを敬虔に信仰することからマキャベリは無縁であったし、その立場から宗教といったものですら国防のために手段として活用するべきだとも言っている。『ディスコルシ』のなかでは国家の礎として宗教をうまくマネジメントすれば秩序の維持や一体感も強まり、国家権力や軍事力を機能させるために役立つかといった論を展開していくのだ。

「共和国や王国の主権者は、自分たちの国家が持っている宗教の土台を固めておかなければならないのである。こうしておけば、何の苦もなくそれぞれの国家を宗教的な雰囲気にひたしておけるし、その結果、国内の秩序は整い、その統一も強固になるものである。たとえ眉唾ものだと思われるようなものでも、宗教的雰囲気を盛り立てていけそうなものなら、何でもそれを受け入れて、強めていくようにしなければならない」(第1巻12章)

1498年、マキャベリは29歳でフィレンツェ政庁(政府)の第二書記局書記官に選出され外交官として活動して実績を上げていたが、1512年に失脚・失職して、27年に58歳で没している。『君主論』『ディスコルシ』のいずれも失職してから書き上げた代物である。執筆中も公職復帰への意志を持ち続けており、それは亡くなる最後まで続いたようである。こうした権力への意志が著作の内容にも反映されていることはよく指摘される。

『君主論』と『ディスコルシ』はある部分で水と油の関係のようでもあり、同じ時期に書き進めていけたのは、マキャベリのある種の柔軟性の現れでもあった。言葉を変えれば、権力の所在と掌握を論じることに軸を置いていたから出来たことでもあるのだろう。権力を巡っては、「運命」(運命の女神・フォルトナ)に半分は譲り渡しても、残り半分は自由意志で掴んでいく。この生々しい権力闘争を是とする世界観は、倫理的立場からはあまり人気がないが、世の中で起きていることの半分を見通す上では役に立ってくれる。

さて、冒頭の「マキアヴェリの食卓」の話だが、想像の世界でマキャベリと食卓を囲むことになったらどうなるだろうか。私個人としては招待を受けたとしたら赴くだろうが、聞き役だけに回るつもりはない。『君主論』『ディスコルシ』について大いに議論を交わしてみたいと思う。その厳しい物の見方、シニカルな考え方に聞かねばならないところもたくさんあるに違いない。他方で、こちらも大いに反論を試みることにもなるだろう。ただ、議論だけで十分にお腹いっぱいになってしまい、彼の吐く毒気とユーモアにもだいぶあてられて、食卓に並ぶ料理はどこかそっちのけになってしまう気もする。


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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

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