温故知新~今も昔も変わりなく~【書評・第126回】 下村湖人『論語物語』(講談社学術文庫,1981年)

講談社学術文庫から出されているもので『論語』に関する本の私的トップ3を挙げろといわれたら、一冊には金谷治『孔子』、もう一冊は加地伸行『論語のこころ』、そしてもう一冊が下村湖人の『論語物語』となる。前の二つは一流の哲学者・漢文学者が一般向けに書いた解説書で、非常に読みやすいが内容はとても濃密である。他方で、『論語物語』は文字通り論語を物語として小説仕立てにしているのが趣を異にする。著者の下村湖人(1884~1955)は小説家・社会教育家として位置づけられているが、何度も映画やドラマ化された自伝的要素の強い『次郎物語』の著者としての方が有名かもしれない。


佐賀県生まれの下村は、鍋島藩の武士であった父などから幼い頃より『論語』を素読しながら学び、旧制第五高等学校(熊本)での漢文の成績は開校以来の最高点を取ったといわれている。東大では英文科へと進み、そこで積極的に文芸評論を行っては名を高め、卒業してからも論壇で活動していくと思われていた。しかしながら、実家の没落などもあって佐賀に戻り母校の中学校で英語教師として働き始めた。さほどの年月が経たないうちに校長となるが文部省からの指導に真っ向から異を唱えて、自らが理想とする教育スタイルを貫いた。その後、台湾の台北高等学校の校長を経て、50歳手前で日本青年館(青年団)での教育に勤しみ、まもなくして青年団講習所の所長となっている。時は1930年代であり、日本は厳しい道を歩み始めていた時期で、その余波は下村へも及び、一部からの圧力でその地位を追われた。『論語物語』はその後しばらくしてから出版されたものである。


『論語物語』は論語全体512章のなかから130章の文を用いて物語が編まれており、孔子の30代くらいから70代で生涯を終えるまでの歩みを30篇近い短編に分けて描いている。

なお、下村は『論語』と一生涯をかけて向き合った人だといわれている。その下村が50代半ばを過ぎた時に書き上げた『論語物語』は、学術的考察とは別の次元で論語を物語として再構成しており、自身が書いた『序文』において次のようにいっている。


「『論語』は「天の書」であるとともに「地の書」である。孔子は一生こつこつと地上を歩きながら、天の言葉を語るようになった人である。天の言葉は語ったが、彼には神秘もなければ、奇蹟もなかった。いわば、地の声をもって天の言葉を語った人なのである。彼の門人たちも、彼にならって天の言葉を語ろうとした。しかし彼らの多くは結局、地の言葉しか語ることができなかった。なかには、天の響きをもって地の言葉を語ろうとする虚偽をすら、あえてする者があった。そこに彼らの弱さがある。そしてこの弱さは、人間が共通にもつ弱さである・・」(序文)


下村はこう述べた後で、自らは孔子が残した天の言葉の真意を明かすことは難しいが、門人たちの孔子に対する言行や態度から自らの弱さや醜さを見つけることはできるとしている。そして、このことで史上の孔子の心ではなくて、自分と自分周辺のふつうの人々の心を描ければ十分であるとしている。


『論語物語』のなかで孔子は困惑などをみせるがその内面の葛藤はほとんど描かれない。一方で、門人たちは孔子を通して内面の葛藤が常に渦巻いていることが描かれ、それがあらゆる場面で噴出してくる。孔子から教えを受けている日常や、孔子が母国の魯で失脚しての流浪の旅路の中など、門人たちは些細なことから動揺しては葛藤を言葉にしてあらわにする。門人のなかでも高弟にあたる子貢についてのお話しとして「富める子貢」が収められている。


「富める子貢」

子貢は後に魯の宰相にまで上り詰め、同時に商才も豊で莫大な富を築いたともいわれる。ただ、孔子の門人として教えを受けていた若年の頃、知識はあっても相当に貧しく難儀していたとされる。貧乏な頃は、仕事で知識を求められて貴族や金持ちの前に出ると、つい物欲しそうな顔が出るか、あるいは悔しさから知識でマウントを取るような態度が出ないように歯を食いしばりながら振る舞っては、ついついぎこちない対応になることが多かった。だが、その貧乏からもどうにか脱して多少の富をもって余裕が生まれたとき、それまでを振り返って誰にもへつらわずにこられたこと、そして今となっては他の門人たちも子貢に敬意を払ってくれていることに自信を深めていた。孔子は富んで驕らないことと、貧乏で怨まないことでは、後者のほうが難しいといったが、子貢は今となっては富んで驕らないことの方が難しいものだなどと考えてもいた。ただ、いずれにしても自分はどちらもクリアしているから十分に認めてもらえるはずだと自負を持ち、いつものように孔子がいる講堂へと向かい後輩門人たちも多くいるなかで堂々と席についた。孔子と他の門人たちの間でなされている対話をしばらく聞いた後、子貢は先立って考えていたことを述べてみた。

・・・

「君が、貧にしてへつらわなかったことも、富んで驕らないことも、わしはよく知っている」

そういった孔子の口調は妙に重々しかった。子貢は、ほめられると同時に、なぐりつけられたような気がした。

「それでいい。それでいいのじゃ」

孔子の言葉つきはますます厳粛だった。子貢は、もうすっかり叱られているような気になってしまった。

「だが――」と孔子は語をつづけた。

「君にとっては、貧乏はたしかに一つの大きな災いだったね」

子貢は返事に窮した。彼は、今日道々、「貧乏はそれ自体悪だ」とさえ考えてきたのであるが、孔子に真正面からそんな問いをかけられると、妙に自分の考えどおりを述べることができなくなった。

「君は、貧乏なころは、人にへつらうまいとして、ずいぶん骨を折っていたようじゃな。そして、今では人に驕るまいとして、かなり気を使っている」

「そうです。そして自分だけでは、そのいずれにも成功していると信じていますが・・・」

「たしかに成功している。それはさっきもいったとおりじゃ。しかし、へつらうまい、驕るまいと気を使うのは、まだ君の心のどこかに、へつらう心や、驕る心が残っているからではあるまいかの」

子貢は、その明敏な頭脳に、研ぎすました刃を刺しこまれたような気がした。孔子はたたみかけていった。・・・(「富める子貢」より)


このエピソードの終わりは、孔子からかけられた言葉に、子貢はもう一度誇らしい気持ちが出かけたところで辛うじて自制を覚えての完となる。子貢の知力は高く、知識も豊富で才能もあった。へつらう気持ちも、驕る気持ちも自制はすることができた。孔子が亡くなった後は、門人たちのまとめ役にもなり、そして先にも述べたように宰相にも富豪にもなっている。世間の人からどのように思われるかを常に察知して、それに対しての気遣いも巧くできたことで人の間にあっては処世を上手にやり、政(まつりごと)にあっては外交なども大過なくこなすことが出来た。それでは出来なかったことは何か、恐らくは過度なまでに肥大してしまった自我を減らしていくことだったのだろう。常に自分という人間の振る舞いが世間にどう受け止められるか、そういう強い意識から終生逃れることができずに苦しんだ人なのかもしれない。論語の中で、孔子は子貢を「瑚璉(これん)」(器)だと評しており、この解釈は色々とあるのだが、もしかしたら肥大した自我を捨てられないならば、せめて閉じ込めておけという意味合いもあったのだろうかなどと個人的には想像もする。


「磬(けい)を撃つ孔子」

もう一つのエピソードに「磬(けい)を撃つ孔子」というものがある。孔子が魯の大臣のポストを追われて流浪の旅に出た時、門人たちもついていくのだが、その行く先や当てが定かでもない旅路に門人たちの意気は一向に上がらない。そんな旅路のなかで衛の国に逗留していたときのことだ。孔子は衛の国の俗っぽい君主に献言をするタイミングを静かに待ち続けていた。その日々のなかで詩を読み、瑟(しつ)を奏で、磬(けい・楽器)を撃っていた。門人たちは忸怩たる思いを各々が胸に過ごしていた。ある時、門人の冉有(ぜんゆう)は所用があってお屋敷の門から外に出ようとすると、農具を持った一人の男が門の前で歩みを止めて、孔子が撃つ磬の音色を聞いては、音は悪くないがまだ色気が抜けないなどと評して、わざとらしく唾を吐きながら去っていこうとしていた。それを目撃した冉有は変な男だと思いながら、男が歩み去ろうとしていたのをみつめていると、向きを変えて冉有のところに戻って来た。そして、シワだらけの顔に笑みを浮かべたかと思いきやそれを消して、今度は舌を鼻の下に伸ばして見つめてきた。冉有は気がおかしい人間かと決めて無視をして立ち去ろうとすると、男は大声で笑いかけてきた。

・・・

冉有は、もう一度彼をふりかえった。

「ほう、お前さんもやっぱり色気組の方かな」

そういって、その男は、おいでおいでをした。冉有は、気狂いだとは思いながら、あんまりばかにされたような気がして、腹がたった。彼は、立ったまま、ぐっと彼をにらみつけた。

「ふっ、ふっ、ふっ、そんなおっかない顔をするもんじゃない。それよりか、あの磬の音を聞かっしゃい」

「磬の音がどうした?」

「じょうずではないかな、ちょっと」

「お前にも、それがわかるのか」

「わかるとも。ようわかる。それ、ちょいと色気のあるところが可愛いではないか」

「何をいうんだ!」

「ほう、また怒った。そんなに怒ると、人間が下品に見えるがな、あの磬のように」

「なに!あの磬の音が下品だと?」

「そうとも。ちょいと可愛いところもあるが、下品じゃよ。ほら、よっぽど執着がましい音がするじゃないか。だいぶ腹もたてているらしいな、もっともお前さんの腹の立てかたとは、少々値打ちがちがうが・・・」

・・・・・・(中略)

「ほう、あれはお前さんの先生か。なるほど、そう聞けば、よう似たところがあるわ。お前さんも、世には捨てられ、世は恋し、という方じゃな」

「・・・・・・」

「世の中がそれほど恋しけりゃ、わがままをいわないで、あっさりだれかに使ってもらったら、どうじゃな。それとも、わがままをいいたけりゃ、きれいさっぱりと世の中をあきらめるか」

冉有は、すっかりいいまくられて、目をぱちくりさしていた。・・・(「磬を撃つ孔子」より)


このあとすっかりと気持ちが動揺した冉有は、あわてて孔子のところに戻り事の顛末を知らせた。すると孔子は冉有にある一言で淡々と諭していく。その一言でもって冉有は落ち着きを取り戻して、再び所用をすませるために門の外へと出ていった。


このお話しのなかで、冉有を挑発するこの男はいわゆる世を捨てて生きている「隠士」の類とされているが、その立ち居振る舞いも言動も下品そのものに描かれている。冉有は、その下品な男の挑発にあっという間に動揺させられて、怒りをあらわにしてしまい、自分では処理できない感情を孔子にぶつけると、一言のもとにいなされて落ち着きを取り戻した。おそらくは挑発を受けて苛立ちのボルテージを上げていく冉有は、孔子を批判されたことに怒り感じているのか、己のなかにある男との同調をどこか感じては、そんな己に怒りを覚えているのか区別もついていなかったかもしれない。


下村は先に引用した「序文」にあるように、門人たちの言葉をじっくりと見直していくなかに、下村自身の弱さや醜さを発見していくことは不可能ではないと述べている。無論、これは下村の最大限の謙虚さの表れだとは思うのだが、いずれにしても『論語物語』はたしかに人間共通の弱さというものを、これでもか、これでもかというくらいに抉り出すことに成功している。道への志を強く持っているはずの門人も、わずかな波に揺らされ踊らされる。ただ、それでもこの物語はどうにか踏みとどまる門人たちを描いているのだ。拡げて考えれば、踏みとどまることなく、耐えることもできず、何かしらの合理的な理屈をつけて孔子のもとを去った門人たちも多くいたはずなのだ。そうした門人たちはもちろん名を残してはいない。


個人的にはこの『論語物語』を初めて読んだときは門人たちの動揺に目が行った。次に読んだときにはそれでも踏みとどまったことに心がむいた。三度目に読んだときには、踏みとどまることなく去っていた門人も多くいただろうことを思った。今にして思うのは道を分かち、道を違(たが)えることは些細なことで生じるということなのだ。


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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

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