温故知新~今も昔も変わりなく~【第127回】 南川高志『ローマ五賢帝』(講談社学術文庫,2014年)

・理想的な時代はあるのか

現在進行形の政治を眺めて満足感を覚える人がどのくらい存在するかはわからないが、直面する現実にがっかりするほどに、どこかに理想とされるような時代があったと思いたいのは人間の一つの性なのかもしれない。近・現代などではなく、歴史を古くまで遡ることを許されるならば、日本史でいう「延喜・天暦の治」や、古代中国を遡るならば太公望や周公旦などの建国の功臣が活躍した周王朝の初期の時代などは、特定の視座からは理想的な時代として扱われた。

ローマ帝国にも理想的とされるような時代があり、帝国の最盛期ともいわれる「五賢帝時代」などは、人徳に優れた皇帝が連綿として統治を行い、帝国の安寧は保たれたとされる。教科書的にはこれを可能としたのには「養子皇帝制」の存在が大きく、この制度の下で元老院において人徳と能力を満たした人材が選出されて皇帝の養子となり、やがて帝位を継いでいく流れが確立して、無駄な跡目争いの勃発が防がれたという説明もなされる。歴史書によっては、この時代をもってストア哲学の理想が貫かれたと評するものまである。


・権力闘争に変わりなし

しかしながら、そもそもこの「養子皇帝制」には持ち上げられるような実体といえるものがなく、帝位を巡ってそれなりに権力闘争が繰り広げられ、ようやく勝敗がついて結果が定まったのを、後付け的に「養子皇帝制」に負う所が大きいとしているのではないかとの立場で論じているのが南川高志著の『ローマ五賢帝』(講談社学術文庫)である。紀元96年、皇帝ネルウァの即位に始まり、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌス・ピウス、最後のマルクス・アウレリウスの逝去で終わるこの時代、どのように帝位が引き継がれていったか。本書では、一つの帝位を巡る血生臭い争い、表には現れずとも裏では起きていたであろうことを、権力の所在、制度、実態、人間関係などに焦点を置きながら、歴史学者として史料に基づくアプローチと大胆な仮説を含めて展開している。


・五賢帝が現れるまで

本書では主にトラヤヌス、ハドリアヌスが軸となるが、第1章では五賢帝時代に入るまでの流れを絞って展開している。五賢帝の初代となるネルウァが即位するよりも百数十年前、カエサルの養子であったオクタウィアヌスが政敵たちを倒してローマに戻り、アウグストゥス(尊厳なる者)の称号で呼ばれその地位を確実なものにしていった。「ローマ皇帝」となったアウグストゥスではあるが、政治的指導者としての地位は共和政時代の制度を活用した立場であった。権威こそは周囲に対して大きく勝ったが、権力の行使はあくまでも過去から存在している法律の範囲に留めたことで、絶対君主ではない「皇帝」に留まった(なお、アウグストゥスは新たに皇帝の称号を名乗らず、養父カエサルの如き「独裁官」にもならなかった)。皇帝が慎重な権力運用を行ったことで、有力な貴族や公職経験者が集っていた元老院も引き続き帝国を統治するためのメカニズムとして機能した。

この後、皇帝の地位を継いだティベリウスは元老院に対して謙虚な姿勢を保つことで一定の秩序を保ったが、その次のガイウス(カリグラ)は暴君となって暫くした後に近衛兵によって暗殺されている。クラウディウスが後を継いで開明的な政策に努めるも毒殺されて、次に皇位に就いたネロは最初こそ善政を敷いたが、後に暴君となって争乱が起きて倒された。その後、ガルバ、ウェスパシアヌス、ティトゥスと皇位は続き、ある程度の秩序が保たれた統治がなされながらも、ドミティアヌスが皇位に就くと再び暴君となって暗殺をされて、ようやく五賢帝の時代を迎える。こうして暴君というキイワードを用いて端的に書いてしまえば、その時代がいかにも悪政を敷いたように思えるが、暴君と称された皇帝たちのなかにも公平な裁判や行政を行い、文化・芸能を庇護した者もいた。誰に対して暴君なのかという部分は常に問題となるが、ここではこれ以上は踏み込まない。


・五賢帝の始まり老皇帝ネルウァ

五賢帝の始まりとなったネルウァは老齢に達してから皇帝の地位に就いたが、先帝が暗殺されていることで、親先帝派と反先帝派の角逐のなかで慎重なかじ取りを迫れた。新たな皇帝が誕生して権力の所在が変われば、その権力周辺の力関係も変動を迫られるのはよくあることで、反先帝派は親先帝派に対してこの機に復讐を仕掛け始めた。ネルウァはこれを積極的には賛成しないが、消極的には容認するといったスタイルを採ることでバランスを保っている。元老院の内部に強い基盤を持つことのなかったネルウァは、幾度も妥協を強いられながらも、表沙汰になった幾つかの権力闘争や近衛隊の反乱などの最中で、ローマに不在でゲルマニアの総督をしていたトラヤヌスを養子とすることを宣言した。ネルウァが老齢であったこともあり、統治していた期間は短く、初代から次代への流れは人徳に優れた皇帝が次代の性格を見極めて選んで任ずるといった雰囲気ではなく、養子皇帝制は政治体制が揺れ動くなかで産声をあげている。


・帝国に最大版図をもたらしたトラヤヌス

紀元98年にネルウァが亡くなってトラヤヌスは皇帝となったが、ローマに即座に戻ることはなく、しばらく時が経過してから首都に入ることになった。これは養子皇帝制が皇帝の権力を保証するための実質的な力がなく、トラヤヌスにとっては軍事力と政治権力の運用で地固めをする時間が必要であり、その後でようやく権威を保ってローマに戻ることができたと本書ではみている。トラヤヌスはそれまでの政治的伝統への気配りを忘れることなく、属州の総督などの地位には本流といえるイタリア出身の元老院議員を多く登用している。そして、ネルウァが行った政争が起きても元老院議員の命を奪うようなことはしないという保証である「元老院議員を殺さぬ誓い」を先帝同様に宣言し、トラヤヌスはこの誓いを実態として守っている。こうした伝統への配慮、政争の限界というものを定めながら、一方で非イタリア出身の新興勢力を登用して、自らの統治を補佐し政策や戦争で新たな推進力となってくれる人々を着実に総督などの公職に就けた。トラヤヌスは自らの治世の間に他国への征服を積極的に押し進めて、ローマ帝国の領土を最大規模にまで高めているが、それを可能としたのが国内の統治を盤石にしたことであったとされる。


・賢帝か暴君か評価の割れたハドリアヌス

トラヤヌスの後を継いだハドリアヌスは皇帝として在位した期間の多くを帝国内部の巡行のために時間を費やしたことで知られている。カエサルの時代に始まったブリテン島への征服活動は断続的に続き、それがスコットランドとの境にまで達した頃に、ローマはブリテン島を東西に横断する全長117キロに及ぶ長城を造った。これを命じたハドリアヌスにちなんで「ハドリアヌスの長城」と呼ばれているが、ハドリアヌス自身が自らこの地を訪れている。ギリシャ哲学や芸術の教養が深く、ローマに代わってアテネへと首都を移転することを目論んでいたとも歴史家から指摘されるハドリアヌスだが、先帝のトラヤヌスが拡大した過去最大となった帝国領土を総じて防衛して維持することにエネルギーを費やすことになった。なお、トラヤヌスからハドリアヌスへと皇位が移ったとき、これが穏健に進んだとはいえず、先帝トラヤヌスが守った「元老院議員を殺さぬ誓い」を引き継ぐことなく、結果的に幾人かの元老議員を処刑することになった。これはトラヤヌスがハドリアヌスを後継として養子縁組をしたプロセスに不透明な部分があり、それに対する疑義があがるなかで起きている。歴史家によってはこの元老院議員の処刑は帝国の拡大政策に対する方針の不一致が原因だったという意見もあるが、本書の著者は史料からそれは考え方として飛躍があり、ハドリアヌスの権力を守るために行われた事件であった可能性を提起している。


・敬虔なる人・アントニヌス帝

ハドリアヌスは晩年になって後継問題で迷走している。実子を持つことが叶わず、地方での反乱などが起きているなかで、血縁から後継を探そうとして幾人かの有力者が処刑をされ、後継を命じられて養子になった者も病没して、また新たな後継者選びが行われた結果、ようやくアントニヌス・ピウスに落ち着いた。五賢帝時代の4番目の皇帝であるが、アントニヌス帝の添え名である「ピウス」は敬虔なる人を意味した。アントニヌス帝は皇位に就いた直後、先帝のハドリアヌスの評価を巡って元老院の意見が大きく割れていたなかで、どうにか暴君のレッテルを張られて抹消されるのを退けて、慣習であった先代の「神格化」に漕ぎつけている。アントニヌス帝はハドリアヌスの統治システムを政治的遺産として引き継げたことで、属州の統治などでも人事を激変させることなく、比較的穏健に統治することができた。個人としては贅沢にふけることを慎み、他方で帝国の内政のためには積極的に事業を行うために財政を投じている。アントニヌス帝の統治は20年以上に及び安定していたが、その後継を巡っては養子皇帝制の性質を大きく変えてしまっている。後継となるアンニウス・ウェルス(マルクス・アウレリウス帝)は養子になっているが、その上でアントニヌスの自らの娘と結婚させることで、それ以降は血縁的世襲への道を開くことになった。ここに元老院のなかから優秀な者を選ぶという原理は崩れることになった。


・最後のマルクス・アウレリウス

マルクス・アウレリウスが自ら書いた『自省録』は現代でもよく読まれ、人によっては座右の書としている。マルクス自身はこれが人目によって読まれることを意識して書いたわけではないとされており、日常で感じる随筆的なものから、哲学的な考え方で思索していくものなど内容は多岐に亘る。当人は哲学者として生きることを望んでいた部分がありながらも、若くして皇帝になることを運命づけられて、アントニヌスからその地位を引き継いでからは、当人よりも9歳年下でアントニヌスの養子でもあったルキウスを同僚皇帝として統治にあたった。皇帝は極めて勤勉であったが時代は先帝の頃とは大きく異なり、危機、混乱、戦乱、争乱といったものが連続して起きる時代へと突入していた。東方のパルティア王国との戦争、それに続く疫病の流行、ローマ帝国の外からゲルマン系部族の相次ぐ侵入(マルコマンニ戦争)、シリア総督による反乱など、マルクスはその統治で戦争の遂行に多くの力を費やすことになった。帝国は数々の問題に対処するために人材を必要として、それに対処できる人間も軍事や民政に専門的に通じていることが求められ、元老院の構成メンバーだけでは応えることが難しくなった。本書では次のように説明している。

「・・マルクスは、以前とは異なった、出自にとらわれぬ能力主義の原理を人材登用に導入し、帝国統治にプロフェッショナリズムを持ち込んだ。そして、その力で危機を乗り切ったのである。しかし、同時に、マルクスの措置は、元老院議員を基盤において成り立つ皇帝政治に、変革への重大な一歩をもたらした。三世紀に入るとマルクスが踏み出した一歩は加速して、騎士身分がその身分のままで帝国統治の重要職務を担うことが増加し、一方で元老院議員が皇帝の指導の下で第一の政治支配層として帝国統治の実際に携わるという皇帝政治の本質が失われてゆくようになる。対外的危機が深刻化してゆくにしたがって、軍事と民政の専門化はさらに進行した。やがて、三世紀の末には、元老院議員階層に基盤をおくのではない、直属の騎士身分に支えられた皇帝の専制的体制、―後期ローマ帝国の皇帝政治―が成立するのである」(第4章 苦悩する哲学者皇帝)

マルクス・アウレリウスは、後継に実子のコンモドゥス帝を選び五賢帝時代は終わり告げた。そこからは、ラッセル・クロウが主演した映画『グラディエーター』で描かれる時代である。


・ローマ帝国の権力闘争も「リベラルアーツ」として

さて、本書に従えば「養子皇帝制」というのは形式としては保たれても、実体としては極めて心細いものに見えてくる。韓非子が権力を巡り「上下、一日に百戦す」という言葉を残しているが、古今東西を越えて政治に適用されるのかもしれない。もちろん、相対的に見れば「良い時代」と「悪い時代」はあるにしても、人間が権力を司り、それをどう分かち合い、システムを保っていくか常に綱渡りともいえる。権力中枢は上手くやっているように思えても、国外や周辺環境が大きく変わり、外圧や危機が増してくれば諸々が揺らぎ、システムは変質していく。

本書は分量的にはコンパクトだが、歴史学者がきちんとした史料に基づき、通説を紹介しながらも、自らの仮説を提起している。理想のように描かれた時代にも権力の移転を巡っては暗闘があり血生臭さがあることを教えてくれる。ところで、こうした歴史教養はどのように役立つだろうか。現代日本に生きる我々が、政治や政情、諸々の疑獄事件や選挙報道を巡りあまりにも情報と評論が多すぎると感じるとき、その洪水に辟易としながらも、ついつい飲み込まれそうになったとき、そこから一気に離脱して冷静に俯瞰をする基盤になってくれる。一体全体、ローマ帝国の歴史の知識など、現代にどう結び付くというのだろうか。効率性ばかりを問えばそんな批判をすることは簡単かもしれない。現代のことを現代の情報ばかりで論じ過ぎてしまう。そんなところから解放されて、解釈の自由をもたらしてくれるのがリベラルアーツの役割でもあると思うのだ。ローマ帝国の権力闘争を軸に、現代の政治権力闘争を俯瞰して考えるような自由があっても良いし、なんとなくそれは心に余裕を与えてくれもすると感じている。


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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

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