兵とは国の大事なり~戦略の業~ 【第3回】 「欧州・アジアでの国防費の増加と自由貿易の揺らぎ、アダム・スミスは何を語るか」
・欧州・アジアでの国防費の増加
欧州やアジアでは国防費が増額されていく流れにある。ドイツは債務抑制に重きを置いてきた国であったが、最近、基本法(憲法)を改正して国防費の大幅増額への道筋をつくることになった。フランスではマクロン大統領が国防費をGDP比で3~3.5%、英国ではスターマー首相がそれをGDP比2.5%まで引き上げていくことに言及している。アジアに目を転じると、中国の国防費が年々大幅に増額してきているのは周知の事実であるが、台湾はGDP比3%まで増額を目指すことが論じられ、日本もGDP比で2%まで防衛費を引き上げることになっている。
・グローバリズムの揺らぎ
ウクライナ戦争の勃発、停戦へ向けた各国利害の衝突、米国とNATOの安全保障を巡る思惑の違い、米中対立の複雑化、米国の安全保障政策の変化などから西側諸国・同盟国内での軋轢や分断が起き始めており、これらが欧州・アジアでの国防費の増額に拍車をかけているのは明白ではある。加えて、トランプ大統領の政策に端を発する「関税戦争」を前にして、世界中の方々で標榜されてきたグローバリズムという言葉もどこか空虚な響きを帯び、自由貿易は保護主義・一国主義の台頭を前にして委縮をしているようだ。2000年代初頭に強く礼賛されていた自由主義・市場主義的な風潮はなんとも不安定なものになり始めたが、当時、自由主義・市場主義の加速化こそが本来のものといった主張を権威づけるためにも、アダム・スミスの言葉や思想がどこか都合よく引用されていたことを思い出す。
・アダム・スミスの『国富論』
「見えざる手」とワンセットで教科書に登場してくるアダム・スミス。その主著である『国富論』(『諸国民の富』)は岩波文庫版でも5冊組を越える大著であって、クラウゼヴィッツの『戦争論』などと同じく最初から最後まで通読されることは現代ではあまりないともいわれている。産業革命も途上で市場経済もまだ成熟していなかった時代に書かれたこの書物を通じて、スミスは市場経済と自由貿易の理論を主唱し、経済学を創始した人物となっている。もちろんこの人物像が事実と違うわけでもなく、『国富論』のポイントを抽出してエッセンスの一つとしてまとめるならばこうした捉え方は可能である。ただ、古典のエッセンスを現代へと敷衍して考えるときに、書かれた当時の時代背景や制約を踏まえること、本人が考えていたことと、他人によって解釈されていくことの狭間で起きている乖離、要約やエッセンスが多く流通していく中で削除や埋没していったことに目を配ることもときに大切なことであろう。
・スミスの「保護主義」の側面
『国富論』は18世紀の後半、一国が貨幣の代名詞でもあった金銀を、モノを買うために貯め込んでいく重商主義への批判書として書かれたことは良く知られている。17~18世紀にかけては英国とオランダ、英国とフランスの間で覇権を巡って断続的な戦争が行われながらも貿易が営まれ、各国ともに軍事力と経済力を強くすることにしのぎを削っていた。スミスが、自国の覇権のために重商主義政策を採用することを批判して、自由貿易の優位を説くことにはなった。他方で、スミスは外国との貿易が過ぎたるものになって、自国の国内産業が軽んじられるのは問題だとしており、十分な資本が国内にも投資されるべきだとして農業や製造業への資本の配分も重んじている。当時、スミスは無制限の自由貿易を主張していたわけではなく、ある意味では国内産業の保護を唱えつつ国富の増加を考えていた。
・スミスの国家論と防衛論
なお、『国富論』の中では、国家の国防費のあり方を論じている箇所がある。そこでは「・・・主権者の第一の義務、すなわちその社会を他の独立の社会の暴力や不正から防衛するという義務は、その社会の文明がすすむにつれて、しだいにますます経費のかかるものになってくる。・・・」(『国富論』第5編第1章第1節)とある。その前提として、ある国が富みを蓄積していくほどに、その富みが別の国を挑発することになるのであって、富める国ほど国防に応じられる十分な軍事力が求められ、さらには自国の自由を維持するためにも要となるとしている。
・トランプ大統領の文脈とスミスの示唆
スミスは確かに市場の優位や自由貿易の大切さを説いたが、他方で国内産業の保護や、十分な軍事力を持つ国家のあるべき姿も論じてもいた。今にして思えば、2000年代初頭、スミスの思想はある部分では都合よく引用され、ある部分では故意に無視されていたようにも思う。ところで、スミスの富める国の富みによる挑発と国防費の増額を巡る考え方については多くの議論があるにしても今もなお示唆を与えてくれる。トランプ大統領が唱えるアメリカ・ファーストやMAGA、最近の関税政策への発言や同盟国への要求を巡る文脈の中に、米国が他の富める国からの挑発を感じていることも含まれているならば、スミスのいう富める国と国防費の関係は現代においても考えるべき焦点になるとも思うのだ。
***
筆者:西田陽一
1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。
0コメント