兵とは国の大事なり~戦略の業~ 【第4回】 「クラウゼヴィッツとマリー夫人の往復書簡が語るパートナーシップのかたち」
・マリーに恋したクラウゼヴィッツ
クラウゼヴィッツはマリー(ブリュール伯爵の令嬢)との恋愛を、数々の試練を超えながら結婚にまでどうにか漕ぎつけていったが、彼はマリーの支えと助けがあって文学・哲学・アート・音楽への造詣を深めることになった。このことは後年『戦争論』を単なる兵学書には留まらないものへと昇華させることになった。言い方を変えれば、マリーがいなければ、クラウゼヴィッツの教養はゲーテやシラーに馴染まないもので終わり、カント哲学などの理解もどこか浅いもので留まって、『戦争論』はとても後世の読者を時に呻吟させるものにはならなかっただろう。
13歳で少年兵としての軍のキャリアを歩み始めたクラウゼヴィッツは、51歳でその生涯を閉じるまでの間、ひたむきに軍人であり続けた人生であった。若い頃より彼は連隊で受ける教育では飽き足らず、まわりの野蛮な匂いを纏うのを潔しとはせず、読書に励んで自らの知性を鍛え続けた。そうした態度が評価されてか当時の人事記録には「卓越した青年、勤務は有能で熱心、あらゆる知識を具備し、なおかつ自ら積極的に新たなる知識の摂取に努力している」とある。この部分だけをみると、クラウゼヴィッツは独りの力を頼みとして自らの知性を陶冶したようにもみえるが、後に出会うマリーによる影響が大きく、彼女によってその知性が本格的に開花されていった。
・互いの運命の人との出会い
出自や身分が大きく幅を利かせていた時代、クラウゼヴィッツの出自は回りからは疑問符もつけられる程度の貴族の血統に過ぎなかったが、マリーはザクセン王国の首相にも連なる明らかな名門の出自であり、受けた教育の水準も非常に高いものだった。若くして宮廷や社交生活に出入りをしては政治や芸術への関心を深め、ドイツの古典文学なども読み込んでいた。その彼女が運命の人であるクラウゼヴィッツと出会ったのは、彼が近衛歩兵大隊長を務めるアウグスト親王の侍従武官として、その任にあたっていた23歳のときであった。
「(1803年12月)フェルナンド親王邸での夕食会のときが、私の人生にとっての重要な転機の始まりです。この日(残念ながら12月の何日であったかは思い出せません)、初めて親王の側にいる彼に会ったのです。私の最大の幸せが始まり、彼は私にとって永久に忘れられない人となりました」(マリーの手記より)
・研究不十分だったマリーの影響と私的書簡の発見
わりと最近までマリーがクラウゼヴィッツの知性にどれほどの影響を与えたのかといった研究はあまり進んでいたわけでもなく、長らくどこか曖昧でもあった。2012年になるとクラウゼヴィッツとマリーの間で交わされた手紙283通分が新たに発見されて随分と解明されることになった。二人の間の私的書簡であるから他人から読まれることは考えていなかった分だけ率直なやりとりが残されており、そこから『戦争論』への影響などを幾つか見出すことができる。
1806年、プロイセンはイエナ・アウエルシュタットの戦いに敗れ、クラウゼヴィッツは最後まで戦うも降伏を余儀なくされてパリへと連行され捕虜となった。この戦いの前後で二人は手紙をやり取りしている。それらの中でマリーが捕虜としてパリに向かう彼へと認めた長い手紙がある。フランス当局に検閲されるのを警戒してフランス軍の占領下にあるベルリンなどについては書くのを控えて、その分だけクラウゼヴィッツへの愛情を告白しつつ、二人が未来に向かって築き得るパートナーシップについて言い含めている。
「どこの誰よりもあなたのことを深く見つめており、誰よりもあなたの功績を信じているのは私です。これは決してお世辞などではなく、私が持つ最も深い確信といえます。あなたが大きなことを成し遂げる能力があることを信じております」
・アートへの教養を深めるクラウゼヴィッツ
クラウゼヴィッツの捕虜生活は収容所にひたすらに閉じ込められるようなものではなく、パリ市内を散策できるなど制限がかなり緩やかなものであった。マリーは彼にパリへと抑留されるのをチャンスとして美術館へと足を運び、彼女が気に入っているラファエロの絵画を鑑賞することを薦めている。彼はこれにどこか等閑な返事を一度返しているが、それに対する返信は猛烈なもので、彼女はラファエロの作品について表面的な理解にとどめずに、その理念などもしっかりと学ぶ努力をするべきだと長い説教めいた内容を送り付けている。この愛情の圧に屈したクラウゼヴィッツは次の手紙で冗談めかしながら「背後からの「攻撃」に気づいた感じだよ」と返信している。
クラウゼヴィッツは彼女との往復書簡に奮起してアートを通じて美的センスを磨くことを続け、アートが創造されるときの創造や知覚の内面的・心理的なメカニズムなどについての洞察を続けていくことになった。後年、こうした洞察を複雑性がついて回る戦争といったものを解明していく際に適用している。
「いかなる理論でも、一旦それが精神的数量の領域に踏みこむや否や、たちまちそれは無限に困難なものとなる。建築や絵画なども、それが物質的素材の問題である限り、事態は明白である。われわれは未だ機械工学的構成や光学的構成の見地から芸術論争がなされたなどという例を聞いたためしがない。・・」(『戦争論』中公文庫)(光の質の変化などに重きをおくモネなどの「印象派」はまだ活躍していない時代の話だ)
・マリーが出版に漕ぎつけた『戦争論』
クラウゼヴィッツとマリーはときに物理的に離れて生活を余儀なくされたが、そのパートナーシップは往復書簡によって維持されて、彼はマリーの言葉から奮起して自らの知性を磨き続けた。クラウゼヴィッツの後半生は、東奔西走した前半生とは大きく変わり、士官学校の校長職に長らく留め置かれることになった。彼にとってキャリアとしては不本意なものであったが、おかげで二人は一緒に居続けられ、彼は自らの考えていることをマリーに問いかけては対話が長らく続く仲睦まじいものだったようだ(当然ながらこの時期の往復書簡はない)。クラウゼヴィッツは最晩年(51歳)に軍人として再度戦場で活躍をしようとしていた矢先に病没している。二人の間に子供はいなかったが、マリーはクラウゼヴィッツの死後、彼が書き残していた膨大な原稿を一生懸命に整理して『戦争論』出版へと漕ぎつけた。
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筆者:西田陽一
1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。
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