2024年秋季講座(明治大学リバティアカデミー) 『教養としての戦略学「戦略論・戦略思想と経営学・ビジネス戦略を「越境」して考える ~軍事領域とMBA的領域の比較~」』
第1回 「孫子」の兵法と経営戦略論、オペレーション論、コーポレートファイナンス論等を「越境」して考える
講座要約(24年11月21日実施)
・軍事とビジネスの両方で用いられる「戦略」という用語
戦略という用語は軍事とビジネスの両者の領域で多く用いられるが、それぞれが相互に越境して戦略の定義を比較や議論することはあまりない。本講座では、両者が用いる戦略概念の共通点と相違点を明確にするのを一つの目標としている。イントロ的な意味合いで両者の相違点をあげると、軍事戦略は行動に生々しい流血が伴い、命令に絶対性があり、法規制(軍法や軍律)が求められるという特徴を持ち、金銭(予算)は国によって与えられる資源として扱われる。一方、ビジネス戦略は、当然ながら流血は許容されず、命令に絶対性がなく、ルールなどは軍事よりも柔軟であり、金銭は自ら獲得するものとなる。
両者の共通点としては、軍事における大戦略・作戦戦略と、ビジネスにおける全社戦略・事業戦略・マーケティング戦略などが示す通り、どちらも基本的には「戦い」の概念に基づくという点があげられる。本講座では、戦場と市場を類似した部分がある概念という前提で、軍事戦略と企業戦略の比較を試みる。また、主体の違い(国家対企業)や規模の違いはあるものの、両者ともに組織体を伴うという部分で共通点があるので可能な限り両者を比較しながら講座を進めていく方針である。
・孫子の戦略目的と経営戦略における目的とは
今回の講義では、孫子の戦略観と現代の経営戦略との関係について論じた。まず孫子の戦略観に関しては、彼は国家が何を目指すべきかといった具体的な理念や目的を明確に示してはいないものの、他方では秩序や安寧の維持を重視する立場にあったといえる。孫子は武力による無理な拡張主義や武断的な支配を肯定せずに、厳しい国際環境にあって自国の生存を最優先に考え、戦わずして勝つことを重視している。その手段として、情報戦や謀略、同盟の分断・形成など、武力以外の戦略的手法を優先的に用いることを提唱している(いわゆる間接アプローチ)。しかし、状況に応じては短期的に敵を撃破するといった戦略・戦術も容認しているが、戦争においては防勢・防禦が持つメリットについても論じている。
一方で、経営戦略の世界に目を転じると、企業においては理念の明確化と共有が重要だと一般的にはいわれる。近年ではミッション・ビジョン・バリューなどの表現を通じて、企業のコア価値を示すことが一般的であり、特にグローバル化を目指す企業では社内での理念を共有させるためにも強い圧力が伴っている場合もある。なお、この点に関連して、経営学者・野中郁次郎氏の著書『ワイズカンパニー』では、企業における理念の共有や哲学的思考の重要性が詳しく解説されており、単なる経営ハウツー本とは違って深みのある分析が行われている。
日本企業においては、理念を重視する企業と死文化している企業の両方が存在するが、いずれも経営戦略においては拡大志向や成長追求が基本とされる。さらに事業戦略においてはビジネス領域では積極的な拡張や攻撃的戦略が肯定的に受け入れられる場合がある。そのため、孫子の武力(実力)を全面的に押し出した拡張主義や支配、加えて作戦戦略における防禦重視という思想とは対照的になる部分もあるといえる。要するに孫子の戦略をビジネス戦略に活用する場合には(そうした主張は多いが)、これらの相違点と影響については踏まえておくのが大切となる。
・孫子の戦略の計画とビジネス戦略の計画の立て方
本講義では、孫子の戦略計画と現代ビジネス戦略との関連について詳述した。まず、孫子自身は「戦略」や「戦術」という言葉を直接使用していないものの、戦略の階層やレイヤーを意識して構成をしている。具体的には、政治指導者が受け持つ戦争指導計画(大戦略的視点)と軍事指導者が責任を持つ武力戦指導計画(軍事戦略的視点)の線引きや役割を区分し、両者を事前に総合して策定することを強調している。この点は現代の国家安全保障戦略(NSS)や国家防衛戦略(NDS)と比較して理解するとわかりやすく、国家戦略は単に軍事力の問題ではなく、経済力や技術力など多様な要素を含む総合的なものだと知ることができる。孫子の「戦わずして勝つ」という概念も、この広義の戦略に含まれると考えられる。
さらに、戦略計画を立案する際の根本となる情報の重要性が強調されるべきである。孫子は「彼を知り己を知れば百戦してあやうからず」と述べ、敵国と自国の状況を定量・定性的に分析することを重視している。これにより、机上でのシミュレーション(ウォーゲーム)を通じて勝算を合理的に検討し、必要に応じて武力戦に移行するか否かを判断する。この情報収集や分析の重要性は、現代のビジネス戦略におけるMBAなどのテキストでも必ず出てくる3C分析(市場・顧客・競合)、PEST分析(政治・経済・社会・技術)、SWOT分析(強み・弱み・機会・脅威)といった手法と共通しているといえるだろう。
ビジネス戦略においては、経営理念を基盤としつつ、情報分析を通じて事業戦略と全社戦略を策定することが求められる。事業戦略は各事業領域での競争優位性の確立を目的とし、各部門の責任者が戦略を立案・実行する。一方、全社戦略は複数事業間での経営資源の最適配分や成長戦略の決定を目的とし、経営層・役員会などで討議される。戦略策定においては、外部環境に着目するポジショニング論(マイケル・ポーター)と、社内資源に着目する資源ベース論(J.D.バーニー)の両方が考慮される。ポジショニング論は市場での有利な位置取りに重点を置くのに対し、資源ベース論は自社の経営資源の質を競争優位の源泉とする。現実の戦略立案では、両者を組み合わせて活用することが望ましいとされている。なお、これらの論点を孫子に置き換えて議論することも可能である。総じて、孫子の戦略観は、政治と軍事の役割分担、情報収集・分析、勝算に基づく合理的な行動といった要素を含み、現代ビジネス戦略と通じる普遍的な原理を示していることが明らかであるともいえる。
・孫子の軍事オペレーションとビジネスのオペレーションの共通と相違
本講義では、ビジネスと軍事におけるオペレーションの類似点と相違点を中心に議論した。特に焦点を当てたのは、孫子の兵法におけるオペレーション戦略と、MBA領域で用いられるオペレーショナル・エクセレンスの概念との比較である。
まず、軍事におけるオペレーション戦略は、速度と集中、運用・情報の正確性、効率性(コスト)、そして継続性の四要素で整理できる。孫子の兵法では、自軍の戦力を迅速に集中させ、敵軍を分散させることで相対的優位を確保することが重視される。また、敵の動向を正確に把握し、自軍の態勢を秘匿すること、戦力を効率的に投入して損耗を最小化することも重要だとされる。さらに、孫子のオペレーションは基本的に短期決戦を前提としており、長期戦になってしまうことを避けるべきものとし、このことで持続可能な戦闘力の運用の在り方を企図している。
一方、ビジネス領域におけるオペレーショナル・エクセレンスは、企業活動の持続的な競争優位性を追求することに主眼が置かれる。オペレーションの主要指標としては、スピード、正確性、コスト、継続性があげられる。企業においては、各部門の業務連鎖を迅速かつ正確に遂行することが求められ、効率的な運用によりコストを抑制することが重要だとされる。さらに、ビジネスオペレーションは常に進化・改善が求められ、継続的に実施されることが求められる点が軍事(孫子)の短期決戦型オペレーションと大きく異なるといえるだろう。
総括すると、軍事とビジネスにおけるオペレーションには「速度(スピード)」「正確性」「効率性(コスト)」に関する共通点がある一方で、オペレーションの「継続性」に関しては軍事(孫子)が短期決戦型であるのに対し、ビジネスは持続的改善型であるという明確な差異が認められる。この比較を通じて、戦略とオペレーションの関係性を両領域において理解することができる(なお、孫子に限らず当初から長期戦を企図して攻勢(侵攻作戦)を行うということは合理的であるとはいえない)。
・孫子の経済・兵站(資金)の考え方とビジネスのファイナンス
孫子の戦略思想において特徴的なのは、他の古典的戦略論と異なり、経済的・ロジスティクス的な側面を非常に重視している点である。孫子は、戦争が長期化すると国家の財源が枯渇し、民衆への課税や徴発が増大して生活が困窮すること、さらに政府の経常支出も増加することを指摘している。具体的には、戦争によって民衆が平時の7割にまで削減されるほどの負担を強いられることがあり、長期戦は国に何ももたらさないと強調している。一方で、戦争による経済的成果、例えば侵略による資源獲得について孫子は積極的に追求しておらず、基本的には短期で目的が達成できない戦力行使は避けるべきだと述べている(長期戦に訴えて、莫大な犠牲とコストに見合うだけでの政治目的など果たしてあるのかと問うているともいえる)。歴史的事例として、大東亜戦争の日本と米国の経済状況を比較すると、日本は1940年を基準にGDPはほぼ横ばいであったが、軍事費の割合は年々増加し、昭和19年にはGDPの約半分を戦争に費やす状況となった(他方では米国は同期間にGDPの総量が大幅に増加しており、戦争が経済的に潤う例も存在している)。
いずれにしても、戦争にかかるヒト・モノ・カネの損耗を正確に予測することは非常に難しいのが現実であり、ウクライナ戦争においても、ロシアなどは短期決戦を想定して侵攻したものの長期化し、多大な経済的・人的損耗を伴う結果となっている。
この戦略思想は、現代のビジネスにも示唆を与える。企業における財務意思決定、資金調達、配当政策は戦略的判断の重要な要素であり、戦争における国家資源の管理と類似する面がある。投資計画や財務計画においては、予測可能な数字に基づく計算が行われるが、実際には不確定要素が多く、楽観的な見積もりが用いられやすい。これは軍事戦略における計画でも同様であり、数字の辻褄を合わせるための目的と手段が転換しやすい点に注意が必要である(大東亜戦争などにおいては戦争を継続させるための辻褄合わせの数字が何度も作られることになった)。
総じて、孫子の戦略思想は、国家や企業における資源の限界と損耗の現実を踏まえ、目的達成に資する戦略行動を合理的に選択する重要性を示しており、現代の戦争や経営戦略にも有効な示唆を与え部分が多いとはいえる。
© 2024‐2025 Yoyu Co., Ltd. All Rights Reserved.
0コメント