2023年秋期講座(明治大学リバティアカデミー)「戦争と倫理・戦略と道徳を考える」(教養としての戦略学)
第2回 近代の戦争と倫理・戦略と道徳
要約(23年12月14日実施)
第2回は、近代における戦争観と倫理思想を考察するため、クラウゼヴィッツとカントを取り上げた。フランス革命とナポレオン戦争を背景に、戦争は従来の王侯間の戦いから国民を動員した「国民戦争」へと大きく変貌した。クラウゼヴィッツは『戦争論』において、この新しい現実を理論化し、戦争を「政治の延長」として捉えた。彼にとって重要なのは、政治目的を合理的に達成することであり、そのために戦争の破壊的側面も現実として認めざるを得なかった。ここに、倫理的制約よりも合理的判断を優先する姿勢が見える。
一方、カントは『永遠平和のために』で、共和制や国際法に基づく恒久的平和の可能性を示した。現実には困難が多いものの、理念としての平和を掲げることは、人間社会の道徳的進歩を促すと考えた。カントは戦争を廃絶すべき悪と捉え、国際秩序を倫理的に構想しようとした点で、クラウゼヴィッツと対照的である。
両者を比較すると、クラウゼヴィッツは「現実の力学の中で合理的にどう戦うか」を重視し、カントは「理念としていかに戦争を超えるか」を追求したといえる。前者は冷徹な現実合理性、後者は理想的な価値合理性を体現しており、その間の緊張関係こそ近代の戦争観を形づくった。本講義では、この二つの思考を架橋することが、現代の戦争倫理を考えるうえでも重要だと指摘した。
今日、ウクライナ戦争や中東情勢をめぐる国際政治においても、現実と理念、合理性と倫理性の両立は容易でない。しかし、現実を無視すれば理念は空虚となり、理念を欠けば現実は暴力に流れる。クラウゼヴィッツとカントの対話は、この困難を乗り越えるための古典的手がかりを提供しているといえる。
講義録(詳細)
・イントロダクション
本講義「戦争と倫理・戦略と道徳を考える」の第2回では、前回の孔子と孫子に続き、クラウゼヴィッツとカントを対比させながら戦争と倫理を考察する。第1回では、孔子と孫子の双方が戦争の開始に慎重である点では共通するが、戦闘の過程においては孔子の儒学が倫理性を強く求めすぎる一方、孫子は勝利を徹底的に追求するなど、アプローチの違いが確認された。
今回のテーマは古代から近代に移り、火器の登場や戦争の烈度の増大といった変化を背景に、戦争と倫理の関係を再検討する。近代においては、クラウゼヴィッツの『戦争論』とカントの『永遠平和のために』を中心に据え、両者を対照的に考察することで、戦略と道徳の関係性をより深く理解することを目的とする。
・戦争の様相の変化
古代から近代への戦争の変化を考える上で、最大の転機となったのはフランス革命とナポレオン戦争である。フランス革命以前の戦争は、兵站や輸送力の制約により大規模な機動戦が難しく、戦闘の目的も限定的であった。例えば国境付近の領土争いや、相手国に限定的な政治的要求を飲ませるための戦闘が中心であり、戦争の規模や影響範囲は比較的狭かった。火器の利用もすでに始まってはいたが、銃や大砲は初歩的で、現代的な戦争規模には程遠いものであった。
しかし、フランス革命とそれに続くナポレオン戦争によって状況は大きく変化する。革命を背景に勃興したナショナリズムにより、戦争への参加が傭兵や限られた常備軍にとどまらず、広く国民全体に及ぶようになった。その結果、戦争の規模は拡大し、戦闘が行われる範囲や期間も飛躍的に増大した。こうして、戦争の様相は古代や中世とは質的に異なるものへと転換していったのである。
・戦略思想の変化
近代に至るまでの戦略思想の変化をみると、西欧ではマキャヴェリの『君主論』が出発点とされる。以降、多くの戦略思想家が現れ、部隊の縦隊・横隊の優劣や兵種の組み合わせなど、戦術的・技術的な議論が盛んに行われた。やがて兵站や戦争運営の問題へと関心が広がり、戦略思想はより複雑化していった。しかし、これらの軍事思想家は戦争を倫理や道徳の観点から論じることはほとんどなかった。
一方で、倫理的な側面から戦争を捉える議論は神学者によって展開されていた。代表例として13世紀のトマス・アクィナスがあり、彼は「正義の戦争」とは何か、戦争の善悪を誰が判断するのかといった問題を論じ、最終的にはカトリックの教皇が普遍的権威として裁定する立場を示した。つまり、軍事的な戦略思想と倫理的な戦争論は、当時は別々の文脈で語られていたのである。
・クラウゼヴィッツ『戦争論』の構造
クラウゼヴィッツの主著『戦争論』は非常に膨大かつ難解であり、通読する人は少ない。しかし抽象的な概念と具体的な事例を往復しながら、弁証法的な議論によって戦争を体系的に捉えようとする点に大きな意義がある。彼の思想の核心は「戦争は政治の延長である」という命題にあり、戦争は常に政治的意図に規定されると同時に、多くの「摩擦」によって計画通りには進まないという現実を強調している。
クラウゼヴィッツはプロイセンの軍人でありながら、カントやヘーゲルに代表される当時の哲学的教養を身につけた知識人であった。そのため『戦争論』も弁証法的な思考に基づいているとされる。彼個人の生涯からは高い倫理観や政治的信念をうかがうことができるが、『戦争論』そのものは必ずしもそうした個人的信条を直接的に反映しているわけではなく、あくまで戦争を客観的に分析した理論書として位置づけられる。
・絶対戦争と現実の戦争
クラウゼヴィッツは『戦争論』において、戦争を「第1種の戦争」と「第2種の戦争」に区別する。前者は敵の完全な打倒を目指す徹底的な戦争であり、後者は国境付近での限定的な領土争いや政治目的達成を目指す戦争である。いずれも戦争は政治の延長として位置づけられ、政治目的に規定されるとされる。
さらに彼は、理念上の「絶対戦争」と、現実に起こる「現実の戦争」という対比を提示する。絶対戦争とは、全ての軍事力や資源を総動員して敵を徹底的に破壊する戦争であるが、これは純粋に理論上の概念であり、現実には存在しない。現実の戦争は、政治目的や社会情勢による制約のもとで遂行され、計画通りの全面戦争に至らず、予期せぬ形で終結することが多い。
クラウゼヴィッツにとって政治とは、普遍的理念を追求するものではなく、国家の現実的状況に基づく知性的判断である。したがって、彼の戦争観は、カントが目指した普遍的な平和理念とは異なり、あくまで現実の政治に根ざした実践的視座に立脚している。
・『戦争論』の用兵思想(作戦・情報など)
クラウゼヴィッツの『戦争論』は政治と軍事の関係を中心に論じるが、それだけでなく実際の作戦・戦術に関する具体的な議論も展開している。地形(山・川・森林など)を利用した戦い方や、国土規模の戦争運営といった、今日で言う「作戦戦略レベル」の問題を扱っている。
彼の用兵思想の特徴は、第一に情報(インテリジェンス)に対する懐疑的な態度である。情報は不確実で信頼性に乏しいため、それに基づいて合理的に作戦を立てることは難しいと考えた。したがって戦場では不確実性が常に存在し、指揮統制も容易ではないと強調する。奇襲や欺瞞についても限定的にしか評価せず、それによって戦争全体の勝利が保証されることはないとした。彼が最も重視したのは、自軍戦力を分散させずに集中させることである。
この点で、孫子の思想とは大きな対照をなす。孫子は情報戦を極めて重視し、予測や合理的決断を積極的に追求すべきだと考えた。また、奇襲や欺瞞を肯定的に評価し、敵を分散させたうえで少数精鋭で決定的打撃を与える戦法を重んじた。つまり、クラウゼヴィッツが「自軍の集中」を重視するのに対し、孫子は「敵の分散」を重視するという対極的な用兵思想を展開している。
・クラウゼヴィッツの倫理観
クラウゼヴィッツは『戦争論』において、戦争を倫理や道徳の観点から論じることを意図的に排除している。彼は「流血なき勝利」を人道的に理想視する考え方を否定し、むしろ戦争においては流血と敵戦力の撃滅こそが本質的で正統な要素であると主張した。そのため、戦争の残酷さを直視し、倫理的視座を持ち込まないことで、戦争の本質を明らかにしようとしたのである。
ただし、クラウゼヴィッツが倫理そのものを欠いた人物であったわけではない。彼はカントやヘーゲルといった哲学にも通じ、社会においては高潔な人格を持つ将軍であったと考えられる。したがって、彼が『戦争論』で倫理を論じなかったのは、戦争研究の方法上の選択であり、その人格や人間性とは切り離して理解すべきである。
・クラウゼヴィッツの世界観(国際政治)
クラウゼヴィッツは『戦争論』第6篇「防御」において、国際政治を利害関係とパワーのせめぎ合いとして捉えている。各国は複雑に絡み合う利害の中で互いに牽制し合い、ある国は現状維持を志向し、別の国はそれを打破しようとする。この視点は国際政治学におけるホッブス的な「力の論理」に近く、むしろそれ以上に厳しい現実主義的な見方ともいえる。
この世界観は現代の国際情勢にも通じる。例えば、ウクライナ戦争ではロシアが現状を打破しようとした一方、ウクライナは現状維持を望んだ。同様に東アジアにおいても、日本、中国、台湾の関係には「現状維持勢力」と「現状変更勢力」の対立が見られる。つまりクラウゼヴィッツの国際政治観は、当時から現在まで通じるパワー政治の現実を鋭く捉えたものである。
・クラウゼヴィッツと同時代の哲学者カント
カントは哲学者として、クラウゼヴィッツとは対照的な立場をとった。クラウゼヴィッツが戦争の本質を明らかにするために倫理を排除し、戦争を政治の延長として現実的に論じたのに対し、カントは倫理と政治の関係を重視した。彼は『純粋理性批判』において理性の限界を探求し、人間がどこまで合理的に考えることが可能かを示したが、本講義で重要なのは晩年の著作『永遠平和のために』である。
この書物においてカントは、国際政治と戦争の問題を倫理的視点から論じ、戦争をいかにして克服し、恒久的な平和を実現できるかを探求した。フランス革命やナポレオン戦争の混乱を背景に執筆された本書は、今日においても国際政治学で重要な位置を占めている。ただし、カントが国際政治学で広く注目されるようになったのは1970年代以降であり、それ以前はさほど重視されていなかった。
・カントの戦争観
イマヌエル・カントは『永遠平和のために』において、戦争を「法に基づいて判決を下すことのできる裁判所のない自然状態において採用される悲しむべき緊急手段であり、暴力によって自分の権利を主張しようとするもの」と定義した。戦争は原則として否定されるべきであるが、祖国を防衛する自衛戦争については例外的に容認される。また、戦争には人間や文化の進歩を促す側面もあるとカントは指摘しており、戦争を全否定するわけではないものの、基本的には戦争を回避する方向で議論を展開している。
カントは永遠平和の実現のために、戦争の原因を排除する「予備条項」と、秩序ある平和を構築する「確定条項」の二段階を提示した。予備条項には、国家を物件と見なすことの禁止、常備軍や軍事国債の廃止、内政干渉の禁止、卑劣な敵対行為の禁止などが含まれる。ここで国家を物件とする禁止は、かつての王侯間の婚姻や譲渡による国家売買を否定するものであり、国家は共同体としての尊厳を持つと位置づけられている。また、常備軍の廃止は戦争の発生を抑制するためであるが、国民に軍事的教養を施すことや自衛手段としての防衛は認められる。
確定条項では、まず国家法(各国の基本法)に従う共同体の形成を出発点とする。次に国際法の段階では、国家間の関係を法的に規律し、国際的なルールのもとで国の連合を形成する。これはあくまで各国の自発的な参加に基づくものであり、強制ではない。最後に世界市民法の段階では、全ての民族が平和的に交際する共同関係を法的に規定することにより、世界的な平和の実現を目指す。
カントの戦争観は、戦争を悲しむべき緊急手段として認識しつつも、法と倫理に基づく秩序によって戦争を抑制し、最終的には恒久平和を実現することを目指す理念的立場であると言える。
・カントの政治観
カントは共和制、すなわち現代でいう間接民主制に強い期待を寄せていた。彼の考えでは、共和制が実現すれば、王や独裁者の好き勝手で戦争が開始されることはなくなる。なぜなら、戦争の主な犠牲となるのは国民であり、国民自身は戦争を望まないからである。したがって、国民が戦争の是非に関与できる共和制の下では、平和の実現が可能になると考えた。しかし、歴史的には必ずしも国民が戦争を回避するとは限らず、時に国民が政府以上に戦争を熱狂的に支持する場合もあったため、この考え方の妥当性については議論の余地がある。
さらにカントは、戦争が倫理的には望ましくないものの、人類の文化的進歩に寄与する側面を持つと認識していた。人々や民族、国家が対立し争う過程を通じて、文化や社会の水準が向上するというのである。彼は、戦争を通じた文化の進歩が一定の完成に至った後で初めて、永遠に続く平和が実現し得ると考えた。つまり、世界の普遍的価値や法の共有が拡大していく過程こそが、平和実現の前提条件であると捉えていたのである。
カントの政治観と平和思想は、共和制による国民参加、戦争の文化的意義、そして普遍性の拡大によって世界平和に至るという三段階的な理念を基盤としている。彼は、国家法、国際法、世界市民法といった法の整備を通じて、最終的には普遍的な平和が達成されることを期待していた。
・戦争目的と戦闘経過の規制について
カントの戦争観における戦争目的と戦闘経過の規制について整理すると、まず戦争目的に関しては、自衛戦争は認める立場をとるものの、戦争そのものは「悲しむべき緊急手段」であると位置づけている。つまり、戦争は本来的に避けるべきものであり、正当化されるのはあくまで自衛の必要がある場合に限られる。
一方、戦闘経過に関してもカントは倫理的規制を重視している。具体的には、暗殺や毒殺、卑劣な謀略行為といった敵対的手段の使用を禁止し、戦争の進行においても道徳的制約を課す。これにより、戦争は単なる力の行使ではなく、倫理的考慮を伴う人間的行為として位置づけられる。
総じて、カントは戦争を可能な限り制限しつつも、倫理と正義に基づいて行動すべきものであると考えており、自衛戦争を除いて戦争目的・戦闘手段の双方に規範を設ける立場を取っている。
・『戦争論』と日本陸軍
クラウゼヴィッツの『戦争論』において戦争はあくまで「政治の延長」であり、戦争目的は政治的合理性に基づくものでなければならないとされる。つまり、戦争は政治目的から独立して展開されるものではなく、名誉心や私欲による無制限な侵略戦争は否定される。この点において、日本帝国陸軍はクラウゼヴィッツの思想を正確に理解していなかったと指摘されている。特に日露戦争以降、大東亜戦争に至る過程で採用された『作戦要務令』や『統帥綱領』では、軍事的合理性が政治の制約から独立して行われてもよいと解釈される部分があり、これはクラウゼヴィッツの本来の考え方から逸脱している。
さらに、日本陸軍では『戦争論』の知識や教養が欠如していたことも問題であった。戦争の本質や哲学的・倫理的な観点を軽視し、限られた戦術的・戦闘的なオペレーション教育に偏っていたため、抽象的に状況を判断し、政治的文脈を踏まえて自ら判断する力が十分に養われなかった。このため、戦争目的の政治性や合理性と、軍事行動の戦術的側面との関係を適切に理解できないまま、戦争遂行に至ったことが日本陸軍の大きな問題点であった。
・両者を比較して
クラウゼヴィッツとカントの戦争観・政治観を比較すると、両者は戦争や政治の時間軸や倫理的視点において大きく異なることが分かる。
クラウゼヴィッツにとって、戦争はあくまで政治目的の延長であり、合理性に基づいた行為として捉えられる。政治目的は理性的かつ現実的であり、独裁者や君主の私的な名誉や欲望による無限の侵略戦争は否定される。『戦争論』では、戦争の種類や現実の戦争における国民、政府、軍隊の三位一体の関係、攻勢と防勢の戦術的議論、さらには戦争の結果によって政治目的が変更される可能性など、極めて具体的かつ現実的な分析が行われている。クラウゼヴィッツの思考は弁証法的であり、肯定と否定、受動と能動といった二項対立を通じて戦争の本質を探求するものである。
一方で、カントは戦争を「悲しむべき緊急手段」と位置づけつつも、最終的には永遠平和を目指すことを政治目的として掲げる。戦争の制約として、予備条項や確定条項を通じて国家法、国際法、世界市民法という三段階の法的体系を構築することを提案しており、共和制の政治体制の普及も平和実現の条件として重視されている。カントの議論は、文化の完成や普遍性の拡大を通じて人類が平和に到達するという観念的な時間軸に沿っており、現実の具体的な戦争事例よりも倫理的・理想的な視点を重視している。
まとめると、クラウゼヴィッツは戦争を現実的・具体的・合理的に捉えるのに対し、カントは戦争を倫理的・観念的・理想的な枠組みの中で捉える。この違いは、戦争の目的や戦闘の規制、政治体制への期待、さらには時間軸の捉え方において顕著である。両者の比較は、戦争と倫理、政治と戦争の関係を理解する上で重要な示唆を与える。
・総括して
クラウゼヴィッツとカントの戦争倫理を総括すると、両者は戦争に対する倫理性の捉え方や時間軸の考え方において大きく異なることが明らかになる。
クラウゼヴィッツは『戦争論』において、戦争が始まった場合には敵の戦力を撃滅することを現実的戦争の原則として追求する。しかし、その戦争の形態には決戦が存在しない膠着状態の戦いも含まれることを示しており、倫理性の有無については単純には判断できない。戦争の終結方法や停戦のあり方が、未来の流血量や平和の持続性にどのような影響を与えるかという視点を含めて考える必要がある。この点において、クラウゼヴィッツの戦争論は現実的で具体的な時間軸の倫理性を問うものであり、戦争の結果と政治目的との関係性を重視している。
一方、カントは戦争を「悲しむべき手段」と位置づけ、戦争の倫理的規制や永遠平和の理念を重視している。予備条項や確定条項を通じて国家法、国際法、世界市民法の三段階の法的枠組みを提案し、共和制の普及を平和実現の条件として強調する。カントの戦争倫理は明確に倫理的であり、戦闘過程における卑劣な敵対行為の禁止など具体的な制限も設けられている。ただし、目指す永遠平和は無限の未来における理想であり、現実的な戦争の即時的結果とは距離がある。
総括すると、カントの倫理性は観念的・理想的な未来の平和に焦点を当てており明確であるのに対し、クラウゼヴィッツの倫理性は現実的・具体的な戦争の経過や結果を通じて問われるものである。両者を比較することは簡単ではないが、戦争倫理を考察する上で、未来の理想と現実の戦争結果という二つの視点を対置させることは重要である。これにより、戦争の倫理性や政治目的との関係性を多角的に理解する手がかりが得られる。
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