2023年秋期講座(明治大学リバティアカデミー)「戦争と倫理・戦略と道徳を考える」(教養としての戦略学)

第3回 現代の戦争と倫理・戦略と道徳


要約(23年12月21日実施)

本講座の最終回では、現代の戦争をめぐる倫理・戦略・道徳の問題を取り上げた。これまで学んできた古代思想(孔子・孫子)、近代の理論家(クラウゼヴィッツ・カント)の議論を踏まえつつ、ウクライナ戦争やイスラエルとガザの紛争を題材に、国際法や戦争倫理の視点から考察を深めた。

講義は「対比」を軸に展開した。哲学者・加藤尚武『戦争倫理学』と社会学者・小室直樹『新・戦争論』という、立場の異なる2著作を並置し、戦争に対する倫理的・制度的理解を比較検討した。加藤は平和追求を人類の根本課題としつつ、最小限の自衛権行使のみを認める立場を提示した。他方、小室は戦争を国家機構による制度的営みと捉え、国際法の遵守を前提とした「戦争限定主義」を主張した。両者の対比は、理念と現実の間で揺れ動く戦争倫理の複雑さを浮き彫りにした。

また、加藤が提示する「絶対的平和主義」「戦争限定主義」「無差別主義」の3類型をもとに、現代における戦争規制の可能性を検討した。絶対的平和主義は理念的には意義があるものの現実には困難であり、無差別主義は全面戦争を肯定する非現実的立場である。その中で現実的な規範として残るのが「戦争限定主義」であり、国際法・人道法を基盤に戦争を最小限に抑える方向性である

さらに、戦略家エドワード・ルトワックの「戦争が結果的に平和をもたらす」逆説的見解も紹介し、戦争が単なる悪ではなく政治的役割を果たす場合がある現実を指摘した。

結論として、本講義は「戦争目的の規制」と「戦闘経過の規制」、「犠牲を相対的に捉える視点」と「絶対的に否定する視点」という2つの矛盾を同時に抱え込みながら戦争と倫理を考える必要性を強調した。現代の戦争を単純に善悪で割り切るのではなく、理念と現実の両面を見据えた思考こそが、人間に許された戦争倫理の在り方であると結んだ。


講義録(詳細)

・これまで過去2回の講座を振り返り

本講義「戦争と倫理・戦略と道徳を考える」第3回は、最終回として現代の戦争をめぐる倫理と戦略、道徳について論じた。これまでの2回で扱った古代中国思想(孔子と孫子)やクラウゼヴィッツとカントの議論を踏まえつつ、現代における戦争の問題を検討している。具体的には、ウクライナ戦争やイスラエルのガザ侵攻を例に、国際法や戦争倫理の視点を交えて議論が展開した。

講義の進め方としては、従来同様に「対比」の構造を取った。今回は加藤尚武『戦争倫理学』と小室直樹『新戦争論』という、性質の異なる二つの視点を対照させることで、現代戦争に潜む倫理的課題を明らかにしようとする試みである。

これまでの振り返りとして、戦争は古代から現代に至るまで政治目的を達成するための手段として存在し続け、永遠平和は実現されていないことを確認した。また、戦争をめぐる倫理的規制には大きく二つのアプローチがある。一つは「戦争の開始そのものの是非」を問う立場であり、もう一つは「戦闘経過や作戦の中での規制」を重視する立場である。孔子と孫子、カントとクラウゼヴィッツはいずれも異なる視点からこの問題に取り組んだが、必ずしも同一の土俵で論じられているとは言えず、その整理には難しさがあることも指摘した。

最終的に本講義が目指すのは、これらの対比や議論を通じて現代の戦争倫理における課題を浮き彫りにすることである。ただし、提示される結論は講師の一見解に過ぎず、受講者自身が思考を深めることが求められている。


・現在の情勢について(ウクライナ戦争)

講義ではまず、現代戦争の具体例としてウクライナ戦争を取り上げた。2022年2月24日に勃発したこの戦争は、間もなく2年を迎えようとしており、古典的な「大規模な軍隊同士の正面衝突」という形態を再び現実化させている。

関係各国の立場について整理すると、米国・NATOは2014年のクリミア併合も含めたロシアの現状変更を認めず、ウクライナの主権侵害を容認しないという立場にある。しかし同時に、第三次世界大戦の回避を重視し、米軍やNATO軍の直接派遣は行わず、軍事・財政支援の範囲にとどまっている。ウクライナにとっての戦争目的は、自国の主権と安全保障を守ることであり、侵略の撃退と防衛体制の確立が政治的目標である。他方ロシアは、プーチン大統領の歴史観を背景に、ウクライナを自国の勢力圏と位置付け、NATOの東方拡大を容認できないとの主張を掲げている。

戦況の現状については、米国議会での追加支援の可否が焦点となっている。約15兆円規模の予算のうち、6兆円がウクライナ向けとされるが、その承認が難航している。専門家の分析では、もし支援が途絶えればウクライナは攻勢を維持できず、防御的戦略に転じざるを得ないとされる。一方で、予算承認の行方は政争の中で不透明であり、今後の戦況に大きな影響を与えると見られている。

ただし、本講義の主眼はこうした短期的な情勢分析にあるのではなく、古典的な戦略論や倫理思想を通じて「変化の背後にある不変の本質」を見極めることに置かれている。日々変動する政治や軍事の現象を超えて、戦争の根本構造や倫理的課題を照射することが重要であると指摘した。


・加藤尚武の「戦争倫理学」

本講義では、加藤尚武の著書『戦争倫理学』(2003年、ちくま新書)を取り上げた。加藤は哲学者・倫理学者であり、ヘーゲルやドイツ観念論を専門とするが、本書では哲学的視点から戦争を倫理的に捉え直す試みを行っている。著者自身が認めるように、本書は9.11以降の国際情勢を背景に急ぎまとめられたものであり、エッセイ的な性格も持つ。しかし、戦争倫理に対する哲学的立場を明確に打ち出した点に意義があるとされる。

加藤の議論の出発点は、「戦争哲学」と「戦争倫理学」の区別にある。前者は戦争の原因や善悪といった抽象的問題を扱うのに対し、後者は戦争そのものを倫理的に規制し克服することを課題とする。加藤は両者を二項対立的に区切るのではなく、相互に越境しうる視座を模索する立場をとる。

加藤は序文において、自らの結論を6点に整理して提示している。①貧困や人権侵害も重要だが、戦争を克服すべき独立の目標とすべきである。②人類は永久平和の実現を目指す努力を続けねばならない。③民主主義体制の成立は戦争を防ぐ十分条件とはならない。④戦争を終結させる平和的手段の開発が必要である。⑤すべての軍事的先制攻撃は不正であり、自衛権のみが正当化される。⑥ただし平和的手段が存在しない場合、発生した戦闘を停止させるための戦闘行為は正当とされる。

これらの主張は、特に⑤と⑥において重要な論点を含んでいる。すなわち、戦争を全面的に否定するだけでなく、現実的に発生した戦闘に対処するための「限定的正当化」を認めている点である。民主主義が戦争抑止の十分条件にはならないという見解も含め、カントの「共和制への期待」とは異なる立場を示している。

このように加藤の議論は、戦争の倫理的規制を抽象的理念と現実的対処の双方から検討する試みとして、本講義の文脈で重要な意義を持つものである。


・絶対的平和主義、戦争限定主義、無差別主義という3種

加藤尚武『戦争倫理学』では、戦争を規制する倫理的立場について、基本的な3分類が提示されている。

第1に 絶対的平和主義 である。これは、戦争を全面的に否定し、自己の安全を守るための自衛権すら放棄する立場である。いかなる軍事行動も正当化されず、徹底した非暴力主義に基づく。

第2に 戦争限定主義 がある。これは、原則として戦争を否定するものの、現実に戦闘が発生した場合にそれを鎮めるための限定的な軍事行動を認める立場である。ここでは、自衛権の発動が正当化される余地が残されている。

第3に 無差別主義 がある。これは、戦争を国家の固有の権利と捉え、いかなる規制も不可能とする立場である。戦争を国際秩序の一部として容認する考え方であり、規範的制約を否定する。

加藤はこれら3種の立場を整理した上で、「戦争目的規制」と「戦闘計画規制」という枠組みを用い、戦争の是非を考察している。序文と後書きで示されたように、彼の立場は永久平和の追求を人類存在の根拠とみなし、戦争の克服を不可欠の課題とする強い倫理的信念に基づいている。


・絶対的平和主義とは

加藤尚武が提示した3分類のうち、「絶対的平和主義」は理念としては存在し得るが、現実的には大きな問題を抱えると指摘した。絶対的平和主義とは、いかなる軍事行動も否定し、自衛権すら放棄する立場である。しかし、この考え方を徹底した場合、国家や共同体が果たして存続可能なのかという根本的な疑問が生じる。

もし地球上に単一の共同体しか存在しないならば、絶対的平和主義も成立し得るかもしれない。だが、現実には複数の国家や共同体が並立しており、それぞれの利害が対立する中で、一方的に武力を完全否定することは非現実的である。

日本における「戦争放棄」や「戦争反対」を掲げる運動にも、この絶対的平和主義に近い立場が見られる。しかし、その主張は「侵略されないようにすべき」「戦争を起こしてはならない」といった自己言及的な答えに留まり、具体的な防衛や抑止の手段を欠く危険がある。この点において、絶対的平和主義は理念的価値を持つ一方で、現実の国際社会に適用する際には根本的な限界を抱えていると考えられる。


・戦争限定主義とは

戦争限定主義は、絶対的平和主義とは異なり、自衛権の行使を認める立場である。国連憲章においても、加盟国による武力行使は原則として禁止されており(第2条4項)、他国への侵略は国際法違反とされる。しかし、その例外として、侵略を受けた際の「個別的自衛権」および同盟国と協力する「集団的自衛権」が、第51条によって認められている。この集団的自衛権は、複数の国が共同で侵略に対抗する権利であり、国際社会の基本的な秩序維持の枠組みと位置づけられている。

日本では長らくこの集団的自衛権の扱いをめぐって議論があり、国際法学者の間でも賛否が分かれてきた。しかし近年は国際情勢の変化を受け、日本も一定の範囲で集団的自衛権を認めざるを得ない状況となっている。ロシアのウクライナ侵攻(2022年)は、まさに国連憲章第2条4項に反する行為として非難され、西側諸国はこの規範を根拠に強く批判した。この事例は、戦争限定主義が国際秩序の中で現実的な規範として機能していることを示している。

さらに戦争限定主義は、戦闘行為の在り方にも制約を課している。国際人道法(ハーグ陸戦条約・ジュネーブ条約など)は、戦争が発生した場合でも守るべき最低限の規範を定めており、捕虜の扱いや医療施設への攻撃禁止、赤十字・白旗など特定の標章を掲げた対象への攻撃禁止などが規定されている。これらは戦闘経過規制として位置づけられ、日本の自衛隊や米軍も演習や作戦において遵守することを求められている。ただし、現実の戦場において常に100%守られるわけではなく、イスラエルとガザの戦闘における病院攻撃の是非のように、運用をめぐる解釈や論争が続いている。

このように戦争限定主義は、①侵略戦争の禁止、②自衛権の限定的行使、③戦闘経過の規制、という3段階の枠組みを通じて、現実の国際関係の中で戦争を最小限に抑制しようとする考え方である。


・無差別主義とは

無差別主義とは、武力行使を国家の固有の権利として無制限に認める立場である。つまり、戦争において政治的・倫理的な制約を考慮せず、軍事的合理性に基づいてあらゆる手段を用いて徹底的に戦うことを許容する考え方である。

この立場は、クラウゼヴィッツが論じた「絶対戦争」に近い。絶対戦争は観念上の理論モデルであり、現実の戦争とは区別されるが、無差別主義はその発想に通じるものである。そこでは戦争を制約する倫理観や国際規範は想定されず、持てる力をすべて投入する全面戦争の世界観が前提となる。

もっとも、現実に無差別主義がそのまま存在するかどうかは疑問視される。クラウゼヴィッツ自身も絶対戦争はあくまで観念的なモデルに過ぎないと述べており、歴史上近似する事例はあっても、完全に無差別主義的な戦争は存在しなかったと考えられる。

したがって、無差別主義は理念型としては想定可能であるが、国連憲章や国際人道法など国際規範が整備された現代においては、現実の国際秩序にはそぐわない立場といえる。


・小室直樹の『新・戦争論』

加藤尚武の『戦争倫理学』が戦争を規範的・倫理的な観点から整理するのに対し、小室直樹の『新・戦争論』はまったく異なる立ち位置から戦争を論じている。小室直樹(1932–2010)は社会学者として幅広い社会科学の知見を背景に活動し、経済学、政治学、政治哲学など多方面に著作を残した人物である。彼は戦争についても早い段階から関心を寄せており、その著書『新・戦争論』(1981年,光文社)は、戦争現象を倫理規範からではなく、社会科学的かつ哲学的視座から捉えようとしたものである。

同書は時代的に古い出版物ではあるが、単なる歴史的事象の記述にとどまらず、戦争を人類存在に不可避な現象として哲学的に論じている点に特徴がある。そのため、現代においてもなお取り上げる意義があると評価される。

このように、小室の立場は、戦争を規制・制限すべき対象として論じた加藤の議論とは対照的であり、戦争そのものの存在理由や必然性を問う思考に軸足を置いている。


・平和とデモクラシーの選択

小室直樹の『新・戦争論』では、平和とデモクラシーのどちらかを選択せざるを得ない状況において、日本人はどちらか一方を選べず、両方を同時に求める傾向があると指摘されている。平和も民主主義も欲しいという立場は、一見当然のように思えるが、現実の戦争倫理や国家意思決定の視点からすると問題を孕む。この立場では、もし民主主義を守るために戦う必要が生じても、「戦わずに守る」という態度が選ばれる可能性がある。

小室はさらに、戦争は単なる個人の良心や平和への願いで解決できるものではなく、国家の政治・政策の範疇に属する問題であると位置付けている。戦争は国際紛争を解決するための巨大な努力の体系であり、国家機構を操作しつつ人的・物的資源を戦争遂行のために動員し、刻々と変化する状況を判断して最適な戦略を導き出す組織的意思決定の過程である。国家機構とは、政府や行政、軍事組織など、権力装置全体を指す。

加藤尚武の『戦争倫理学』との対比がここで明確になる。加藤は戦争倫理や個人の平和への願いを中心に議論を展開し、国家権力の操作や戦争遂行の現実的側面には踏み込まない立場を取る。加藤は戦争を倫理的・理念的に捉え、個人の願望や理想を重視する。一方で、小室は国家機構という現実の権力構造を直視することなしには戦争を理解できないと考える。このように、両者は戦争理解のアプローチにおいて、理念と現実という対照的な視点を示している。


・戦争限定主義の立場から

戦争限定主義の立場から、小室直樹は戦争を無差別な暴力行使とはみなさない。戦争は敵を殺傷すること自体が目的ではなく、国際紛争を解決し、相手に自らの意志を強制する手段であると位置付けている。戦争は人類文明史を通じて創造されてきた高度に組織された制度であり、平時の国際法から戦時国際法への移行として捉えることができる。戦争は無差別主義でも絶対的平和主義でもなく、戦争限定主義の枠内で合理的かつ文明的に行われるべきものである。

さらに小室は、戦争目的規制や戦闘計画規制にも踏み込み、国家間の政治目的、自衛権の行使、戦闘経過における国際法の遵守といった要素を総合的に議論している。戦時国際法としては国際人道法、ジュネーブ条約、ハーグ条約などを参照し、戦争における文明的秩序の重要性を強調している。

国連の役割に関しても、戦後の現状維持を恒久化する機関であるというややシニカルな視点を提示している。国際社会は刻々と変化するものであるにもかかわらず、特定時点の「現状」を固定化することは果たして可能かという疑問を呈している。この視座は冷戦崩壊前の議論に基づくが、戦争限定主義的視点からの国家間秩序の理解として示唆的である。


・戦略家エドワード・ルトワックの見方

戦略家エドワード・ルトワックは、戦争を単なる巨悪として否定するのではなく、一定の政治的役割を果たす現象として評価している。戦争は参戦者の疲弊や決定的勝利の結果として、最終的に平和をもたらす場合があると指摘する。つまり、戦闘の積み重ねの末に、戦争停止がさらなる戦闘よりも魅力的に映る状況が生じることで平和が実現される。この視点では、戦争は倫理的に肯定されるものではないが、国際政治上の現実的機能として無視できない存在であるとされる。


・再び加藤尚武の『戦争論倫理学』(ガンマンの正義)

再び加藤尚武の『戦争倫理学』に戻る。第13章「ガンマンの正義」では、先制攻撃は不正であり、相手が攻撃の姿勢を見せた後でのみ正当防衛が成立することを論じている。相手がピストルを撃つだろうという理由だけで先に攻撃することは正当防衛を口実とする殺人になってしまうため、慎重な判断が求められる。この「ガンマンの正義」は自衛権の発動における倫理的指針として、急迫性、他に手段がないこと、必要最小限の実力行使という3条件を明示している。自衛権や正当防衛の行使は、ミニマムの武力行使に限定されなければならないが、この最小限の行使で国を守れるかどうかは別問題である。ガンマンの戦いは1対1の状況で考えられるが、戦争はより多くの敵や支持者が関与するため、最小限の防衛で侵略を抑止できるとは限らない。

加藤の議論は自衛権の発動条件としては成立するが、祖国防衛の成功までを保証するものではない。一方、クラウゼヴィッツは防御の根底には報復の要素が必要だと指摘しており、攻撃に対して敵の意志を震え上がらせる力がなければ軍事的合理性は成立しないとする。この点で、加藤の最小限の武力行使とクラウゼヴィッツの報復重視の立場には触れ幅がある。自衛権の倫理的要件と軍事的成功の関係は別の議論であることを押さえることが重要である。


・結論として

ウェストファリア体制以降、30年戦争からナポレオン戦争に至る間、戦争は一時的に限定戦争、制限戦争の形態を取るようになった。戦闘中のルールや暗黙の了解が形成され、無制限の暴力は避けられた。しかしナポレオン戦争を契機に、国民全体を巻き込み、イデオロギーが戦争動員の原動力となる状況に変化した。現代においても、兵力や資源の制約によって独裁者であっても戦争遂行の限界は存在する。クラウゼヴィッツが指摘するように、政治と軍事は切り離せない関係にあり、戦争の進行や終了には政治的判断が不可欠である。

小室直樹と加藤尚武の戦争観を整理すると、加藤は普遍的なリベラル価値や民主主義の追求を重視し、自衛戦争のみを認める戦争限定主義に立つ。戦闘経過規制については具体的言及が少なく、自衛権の最小限の行使に重点を置く。一方、小室は保守的立場から戦争を個人の良心だけで片付けられない制度として捉え、戦争目的規制や戦闘経過規制においても国家機構が戦争を統制する重要性を強調する。小室は戦争を高度に文明的な制度と見なし、国際法遵守を前提とした戦争運営を論じる。

歴史的に見れば、戦闘経過の規制を含む国際人道法の発展は進展しており、米軍や自衛隊のような軍隊は一定のルール遵守の努力を行っている。加藤は戦争目的の規制に重きを置き、戦闘経過の規制や現実的成功の評価については言及が少ない。一方で小室は国家権力と制度的管理の視点から戦争を論じるため、より現実的な運用の可能性に焦点を当てる。加藤の普遍的価値追求は倫理的理念として尊重されるべきだが、現実の戦争と照らすとその信念だけでは説得力が制限される場合もある。

倫理の捉え方について、孫子、クラウゼヴィッツ、小室の立場では流血量や犠牲の相対的な多寡を基準とするアプローチがある。他方、儒家、カント、加藤の立場では、そもそも犠牲や流血を許容せずに倫理を構想するアプローチを取る。この2つの立場は矛盾するように見えるが、両方の観点を同時に持ちつつ戦争に臨むことが人間に許された倫理的態度である。現実的戦争の中でも理念的戦争倫理の中でも、振れ幅を持って両者を統合的に考えることが重要である。

結論として、戦争目的規制と戦闘経過規制、理念と現実、犠牲の相対的評価と絶対的非犠牲という2つの倫理的観点を併せ持ち、矛盾を許容しつつ戦争と倫理を考えることが、現実的かつ理念的に人間が取り得る姿勢である。

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