2021年春期講座(明治大学リバティアカデミー) 教養としての戦略学『孫子』「マキャベリ」クラウゼヴィッツ『戦争論』「リデルハート」などを手掛かりに
第1回 古代篇
講義録(21年6月3日実施)
・孫子とは何か
中国の春秋戦国時代には、諸子百家と呼ばれる多様な思想潮流が興隆し、法家や墨家、縦横家などと並んで兵家が登場した。その代表的存在が孫武による『孫子』である。『孫子』は全13篇から構成され、国家レベルの大戦略から軍全体の作戦、部隊運用にかかわる戦術、さらには情報活動やリーダーシップにまで幅広く言及している。戦史的事例をほとんど導入せず、戦略思想を簡潔に提示したため、2500年以上を経た今日においても広く読まれ続けている。
・政治と軍事の関係
孫子の戦略思想の根幹には「戦争は国家の大事である」という認識がある。戦争は国家の存亡を決定する重大事であり、君主と将軍は軽挙妄動を慎まなければならない。武力行使は「利あらざれば動かず」「危急存亡のとき以外は戦わず」とされ、常に国家目的に基づいた政治判断が優先されるべきだと説く。このような政治と軍事の関係は、後世のクラウゼヴィッツが提示した「戦争は政治の延長である」という命題に通じるものである。
・「戦わずして勝つ」という戦争観
孫子の代表的な言葉として「上兵は謀を伐つ」「戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり」が挙げられる。すなわち最上の戦略とは、敵の謀略や外交的基盤を崩し、戦わずして勝利することにある。次善は同盟関係を切り離すことであり、それでも効果がなければ敵軍を撃破し、最後の手段として城を攻めるとする。これは単に戦闘を回避するという意味ではなく、戦争開始以前の段階において情報戦・心理戦・同盟操作などの多様な手段を駆使し、最小限のコストで勝利を収めようとする思想を示している。
・「勢」と「情報」の重視
孫子は戦争において「勢」(流れ・優位性)を重視した。敵より有利な条件を作り出し、その勢いに乗ずることで、少数の力であっても大きな成果を得られるとする。これは現代の戦略論における「相対的優位性の確保」に通じる。また、孫子はスパイや諜報の活用を強調し、戦争を勝利に導くうえで情報活動を不可欠の要素とした。このような姿勢は、古代中国における迷信的要素を退け、合理的思考によって戦争を分析しようとした点において画期的であった。
・経済と時間の感覚
孫子は「兵は拙速を聞くも、未だ巧の久しきを見ざる」と述べ、戦争は短期決戦を目指すべきであると説いた。長期戦は国家の経済力を疲弊させるため、拙速であっても迅速に勝敗を決する方が有利だと考えたのである。ここには、戦争が経済や民生と不可分であるという現実的認識が示されている。
・組織とリーダーシップ
『孫子』には組織運営やリーダーシップに関する言及も少なくない。将軍は冷静な判断力と部下を統率する力を備えることが求められる。また、部隊の規律や訓練も勝敗を左右する要因とされる。こうした視点は現代的なマネジメント論にも通じるものであり、孫子の思想が軍事領域を超えてビジネス分野にも応用される理由は、この普遍的な組織運営の洞察にある。
・孫武とその時代
孫武は春秋時代末期の人物であり、呉王闔閭に仕えて軍事的才能を発揮したと伝えられる。楚との戦いで功績を挙げ、『孫子』を著してその名を高めた。戦国時代に入ると孫臏が登場し、『孫臏兵法』を著したが、孫武の『孫子』は体系性と普遍性において群を抜き、後世に強い影響を与えた。群雄割拠の戦乱期に生まれた現実的思想が、現代に至るまで継承されているのである。
・まとめ
孫子の戦略思想は、「戦わずして勝つ」「勢の活用」「情報の重視」「短期戦志向」に集約される。戦争を単なる武力行使ではなく、政治・経済・心理・情報を含めた総合的営為として把握した点に普遍的価値がある。戦国の苛烈な環境に根ざした合理的かつ冷徹な思想は、現代社会における戦略論や組織論に対しても示唆を与え続けている。
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