2019年春期講座(明治大学リバティアカデミー) 教養としての戦略学 「戦略古典・『孫子』とクラウゼヴィッツ『戦争論』の本質を読み解く ~ロングセラー『失敗の本質』を手掛かりにしながら」

第1回 政治・外交・経済と軍事の関係はどうあるべきか(ノモンハン事件)

講義録(19年5月29日実施)

第1回は、大東亜戦争に至る過程や個別作戦に先立ち、政治・外交・経済と軍事の関係をめぐる構造的問題を検討した。その核心は、日本軍が「戦争の遂行を武力戦に限定し、政治や外交を軽視する」という傾向を持っていた点にある。この視点から、ノモンハン事件と大東亜戦争開戦経緯を二つの事例として分析し、『孫子』および『戦争論』の理論と比較して論じた。


・ノモンハン事件 ― 政治と軍事の視点から

『失敗の本質』でも分析対象となったノモンハン事件は、政治と軍事の不調和を典型的に示す事例である。関東軍は独断専行で「満ソ国境紛争処理要綱」を策定し、現場の判断で武力衝突を拡大させた。第一次事件は偶発的衝突に端を発したが、第二次事件ではソ連軍の包囲を受け壊滅的損害を被った。ここで注目されるのは、参謀本部が戦況を悪化させたのではなく、むしろ「自発的中止」によって事態収拾を図った点である。

この過程には、統帥思想の歪みが反映していた。マニュアルとしての『統帥綱領』は「軍事独立」と「政略無視」を強調し、統帥の本質を「政治からの自律」と規定した。結果として関東軍は現場独断を正当化し、政治判断を排した軍事行動を積極的に遂行した。『孫子』が武力戦を「最後の手段」として外交的手段の限界を補うものとしたのに対し、日本軍は武力戦のみを戦略・戦術の範疇に限定し、政治との連動を軽視した。『戦争論』も軍事行動の理由を「政治目的の延長」と規定している点からみれば、日本軍の行動はクラウゼヴィッツ的枠組みから逸脱していたことが分かる。


・大東亜戦争開戦経緯 ― 外交と軍事の視点から

次に分析されるのが、真珠湾攻撃に至る開戦過程である。ここでも政治と軍事の相互作用が極めて不全であった。『孫子』が外交戦を重視し、『戦争論』が外交破綻を武力戦の出発点とみなすのに対し、日本は外交を軍事と切り離し、外交的失敗をむしろ軍事行動の口実として利用した。

1940年以降、欧州戦線でのドイツ軍の快進撃に幻惑され、日本は「時局処理要綱」と呼ばれる都合のよい政策文書を策定し、政治協定としての三国同盟を軍事同盟に転化させた。外交と軍事は相互に独立した変数として扱われ、相互補完的関係を築くことができなかった。その結果、海軍は全力動員準備を急ぎ、米国の態度硬化を招いた。日本の戦争計画は「腹案」と称する玉虫色の文書で曖昧にされたが、実際には短期決戦に偏り、エンドステート(戦争終結イメージ)を欠いた。

『戦争論』は武力戦に二つの形を認めている。すなわち、敵を完全に無力化する「絶対戦争」と、政治的妥結を志向する「現実の戦争」である。だが日本はこの区別を理解せず、真珠湾奇襲をもって政治的解決への道を閉ざした。外交の延長として軍事を位置づけるのではなく、軍事が外交を凌駕し、政治目的が不明確なまま武力戦へ突入したのである。


・総括

ノモンハン事件と大東亜戦争開戦経緯に共通するのは、日本軍が「政治と軍事の関係」を誤って捉えたことにある。『孫子』や『戦争論』の示す原理に従えば、武力戦は外交や政治の失敗を補完する手段に過ぎず、常に政治目的に従属すべきものである。だが日本軍は統帥思想や制度的要因によって軍事独立を強調し、外交や経済の要請を顧みなかった。その結果、政治目的と軍事手段の乖離が深まり、国家としての戦争遂行能力が大きく損なわれた。

このように第1回は、日本軍の失敗の根源を「政治・外交・経済と軍事の関係」に見いだし、東西の戦略古典との比較によってその歪みを明らかにした。ここで提示された問題意識は、本講座全体を貫く核心であり、続く各作戦事例分析の基礎をなす。