論語読みの論語知らず【第43回】「祭れば在すが如し」

喫茶店では「ブレンドコーヒー」がメニューの冒頭にたいがいあり、男性諸兄はさして考えずにそれを注文することが多いだろう。多分、何がどの程度ブレンドされているかを気にして尋ねる諸兄は滅多にいない。ブレンドを気にしないのは、なにもコーヒーだけに限ったことではなく、社会生活の上での節目のイベントでもそうだ。

たとえば、いわゆる仏式葬儀と呼ばれるものも、蓋を開ければ実のところ純粋な仏式とも呼べないのだ。寺院で執り行われる葬儀を例とすれば、手を合わせる参列者の多くは安置されている死者の棺や白木の位牌に拝むことをしている。しかし、「仏教徒」としては本堂に配されてる本尊に手を合わせるのが基本的な正解となる。その理由は、一般的に仏教では、法を顕現している本尊を拝みその余光にあずかり死者が成仏することを期待するからだ。


では棺や位牌に拝むのは一体どこから来ているのかといえばこれば儒教からとなる。仏教では、亡くなった人が成仏したという前提に立てば、肉体自体にはドライにいえば意味を持たないことになる。ただ、儒教の場合、その源流に遡れば、肉体には死することで抜け出た魂がいつか再び戻ってくる可能性を考える。したがって、その肉体を大切に扱いつつ地中に葬りその上に墓をつくることにつながる。(日本では肉体は火葬されてしまうが、そのお骨を大事にする慣習は同じような感覚なのだろう。)したがって、亡くなった人の肉体は哀しみを手向けつつも、遺族がしっかりと管理を求められるものとなり、そして、祖先・祖霊を大切に祭ることにつながってくる。祖先や祖霊を大切に祭ることについては、論語に次のような言葉がある。


「祭れば在すが如し。神ゝを祭れば神ゝ在すが如し。子曰く、吾 祭りに与らざれば、祭らざるが如し、と」(八佾篇3-12)


【現代語訳】

老先生は、祖先の祭祀のとき、祖先がそこにおられるとして、神々の祭祀のときには、百神がその場におられるとして、まごころを尽くされた。そして、こうおっしゃられたことがあった。「(なにか用事で不在だったり病気だったりして)祭祀に参加できなかったとき、(祭祀は無事に終了したものの)なんだか祖先や神々に申しわけなかった気がしてならない」と(加地伸行訳)


儒教といえば、父親・母親への「孝」、つまりは親孝行をやたらうるさくいわれるという印象が強いかもしれない。間違ってはいないが、実のところ、「孝」は、「父母孝行」と「祖先祭祀」「子孫繁栄」の3つでワンセットとなる。「孝」を行うことで、人は子孫を生み、祖先と祖霊祭り、そして自らも死を迎えた後は、子孫によって今度は祭られ、そのことでもう一度この世に再生することが叶う理屈になる。仏教の源流に遡れば、「生」は「苦」の連続という考えだから、如何にしてこの「苦」である「生」から解放されるかを求める。

一方で儒教の世界、論語の領域では、「生」を「苦」としてとらえずに、いうなれば論語冒頭の「また楽しからずや」に代表されるかのように「楽」として捉えるのだ。「生きることは苦しみ」ではなく、「生きることは楽しみ」という人生観においては、いかにしてこの世に舞いもどるかを希求するのが自然であり、「孝」は必然かもしれない。

さて、葬儀については仏式儒式を巧みにブレンドしている日本だが、その人生観もまた適度にブレンドしているかもしれない。もっとも隠し味に何か深いオリジナルがあるような気もするが、あまり気にせずに尋ねないくらいの態度がときに丁度良いのだろうか。


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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

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