温故知新~今も昔も変わりなく~【第29回】 宇野哲人 全訳注『大学』(講談社学術文庫,1983年)

中国の古典「大学」のなかにある「修身斉家治国平天下」。この言葉がどのくらい一般的なのかはわからない。ただ、初めて読むとしても、字面を眺めていれば何をいわんとしているかのイメージは浮かび来るだろう。古典「大学」は同じく、古典「礼記」の中から抜き出されて独立したもので、「論語」「孟子」「中庸」とともに四書の一つをなしている。なお、「礼記」はかなり雑駁な書物で、堅苦しい制度論からマナーなどの多方面にわたるが、中には思わず笑ってしまうのもある。


たとえば、「食事のさい、飯を食いほうだいに食い、汁をがぶがぶと飲み、くちゃくちゃ音を立て、骨をいつまでもかじり、食いさしの肉を大皿に入れ戻し、うまそうなところばかり狙う、こんなのはすべていけない」(曲礼上篇)

確かに、今も昔も変わりなく、これはすべていけない・・・。さて、「修身斉家治国平天下」に戻る。意味は「自分の身(心身)を修めて、はじめて家やりくりができ、家のやりくりができて、はじめて国も治めることができ、国を治めることができて、はじめて世界全体を平和にすることができる」くらいのものだ。多分、格言としてはさほど違和感なく読む人がほとんどだ。だが、世の中で面倒な部類に入るタイプの職業である哲学者(尊敬を込めて)などは、「修身」「斉家」「治国」「平天下」それぞれの間における関係性は何かと考え始める。


18世紀のドイツで活躍した哲学者クリスチャン・ヴォルフがその一人だ。この人はガチガチの合理主義者で、いうなれば、人間の認識能力を深く信頼した人だ。世の中の物事や事象にはすべてしかるべき十分な根拠、十分な理由がある(「十分な理由の法則」)との考えを支持した人だ。彼の考え方の根底には「自然の法」がある。ただ、この場合の「自然」とは、奇跡や神秘、魔術といった「超自然」に対義する「自然」のイメージだ。我々の肌感覚的な単語でいえば「常識」という言葉でもよいかもしれない。空っぽだったはずの帽子の中から、鳩が飛び出してくる手品・・これはだれもがトリックがあると「常識」的に知っているし、これが「魔術」によるものだとは誰も思わない。そんなのは「自然」とわかっているくらいの感じだ。


さて、このヴォルフがやたら持ち上げたのが「修身斉家治国平天下」だった。時代も国もまったく違うが、このヴォルフがドイツのハレ大学の学長を退任するときに記念講演テーマにわざわざ選んだのは「中国人の実践哲学」だった。そこで、古代に生きた中国人は「十分な理由の法則」を弁えて、それに従って道徳を作り上げて、政治を行っていたとし、その論拠として「身を修める」「家をやりくりする」「国を治める」「世界全体を平和にする」をあげ、それぞれの間に、「根拠と帰結」の関係をみたようだ。(連続する因果関係)。


「常識」的なことをわざわざ記念講演で述べたヴォルフは、普段から「仮に神がいなくとも、自然の法がある」と言い張っていたのも災いして、神学部から圧力を受けて2年後にハレの街から48時間以内に退去を申し渡された。ところで、「大学」がもともと含まれていた「礼記」の成立には諸説ありよくわからない。そして、「大学」のこの言葉を「根拠と帰結」や因果関係の単線だけでみてよいのだろうか。それは一つのアプローチだろうが、実践していくなかではもっと目に見えない複線や分岐があるくらいが味わい深い。


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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

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