論語読みの論語知らず【第44回】「生まれながらにして之を知る者は、上なり」
「上がった相場も、いつか下がるときがあるし、下がった相場も、いつかは上がるときがあるものさ」と人間の評判を相場にたとえて喝破したのは勝海舟だった。相場の上がり下がり、それは孔子も例外ではない。聖人の如く崇められた時代もあれば、自分のことを高きにおき、人々を上から目線で見下した「イヤな奴」として批判されたこともある。
中国でも時代によってその評価は上下する。漢の時代が上がり相場だとすれば、一方で、最後の王朝清が倒れた以降などは下がり相場の連続で、「阿Q正伝」などで知られる魯迅などは「礼教は人を喰らう」として儒教倫理を批判した。(もっとも儒教=孔子ではない。)
さらには、1970年代、中国共産党下の中国で、林彪(リンピョウ)という政治家と抱き合わせで、孔子は批判運動の対象とされた。それは、林彪が普段から論語の「克己復礼」の言葉を好み、自らを天才と考え振舞う態度があったことによる。もっとも、この批判運動が起きたとき林彪はすでに死亡していた。(毛沢東により「極右」「反革命」とレッテルを貼られて失脚し、ソ連に向け飛行機で亡命中に謎の墜落死)
2500年も前に生きた孔子が、この批判運動の際、上から目線の「イヤな奴」と巻き添えにされた根拠となるのが論語の次の一文だ。
「孔子曰く、生まれながらにして之を知る者は、上なり。学びて之を知る者は、次なり。困(くる)しみて之を学ぶものは、又其の次なり。困(くる)しみて学ばざる、民 斯れ下と為す」(季氏篇16-9)
【現代語訳】
孔先生の教え。生まれつき道徳(人の道)を理解している人間が、最高である。学ぶことによって(すぐに)道徳を理解する者は、それに次ぐ。(すぐにではなくて)努力して道徳を学ぶ者は、さらにそれに次ぐ。努力はするものの(結局)道徳を学ぼうとしない、そういう人々、これは最低である(加地伸行訳)
この一文は、生まれながら知る「生知」、学んで知る「学知」、困しんで学ぶ「困知」、学ばない「不知」の4つに分けており、孔子は自分のことを「生知」とし、その一方で他の人々を見下したとして批判をされたのだ。論語全体を読んでいけば、この一文でもって孔子を批判するのは無理筋と思うが、これだけで解釈すれば一応この理屈が成立はするかもしれない。ところで、世の中に完全がないように「論語」もまた完全なテキストではなく、そしてこの一文も、孔子が本当にいったことなのかよくわからないのだ。
論語は全部で20篇からなるが、前半10篇がまともで、後編10篇は粗雑な伝承の寄せ集めとの研究もある。特に前半は「子曰く」で始まるものがほとんどで、この一文は「孔子曰く」で始まっており、後世に入れられた根拠ともされる。つまりは、林彪批判のために引き合いに出された一文が、孔子の言葉としての信憑性は怪しくなる。ただ、正直な所、真実はどうあれ、このこと自体はさほど重要とは思ってない。
長い歴史のなかで、孔子の人物像や言行にまつわるエピソードは大量につくられてきた。それらに対して史料検証を綿密に重ねて真実を追求していくのは、学問的態度としては正しくて必要ではある。ただ、そうした理屈の整理にはあまりにも悠久の時が必要で、そして論争に終わりもないだろう。一方で、この一文を読み、それが孔子のオリジナルかどうかはさておき、そして、他人との比較で上から目線云々で批判するでもなく、素直に今の自分を省みるのも一つの古典に向き合う態度だ。そして、その態度自体は刹那の時でとることができる。
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筆者:西田陽一
1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。
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