温故知新~今も昔も変わりなく~【第5回】 『春秋左氏伝』無用の情け・・

筆者は少年時代「三国志」を大いに好んだ。横山光輝のコミック「三国志」(全60巻)から入り、吉川英治の小説「三国志」へと進み、中国史に強く興味をもった。いまではだいぶ忘れてしまったが一時は出てくる武将や戦いの詳細をかなり覚えていたものだ。惚れ込んだ武将をひとりあげるとすれば、関羽を躊躇なくあげたい。義理に厚く、武勇に長けていた関羽は非業の死を遂げるがその声望は消えず、いつしか道教では神様として祭られることになった。その関羽が愛読して諳んじていた「春秋左氏伝」という古典である。


いまではそれほど読まれることがなくなっているかもしれないが、慣用表現の「牛耳る」や「病膏肓に入る」などはこの左氏伝が出典で、現代日本語でも使われている。この「春秋左氏伝」はそもそも何かといえば、四書五経のひとつ「春秋」という歴史書の解釈・解説本となる。この「春秋」とは魯の国の歴史書であるといわれており、極めて簡潔に事実だけを記録しているものだ。はっきりいえば面白味に欠けるこの「春秋」は、孔子が編纂したとされる。そして、淡々と事実だけを記載しているようで、微妙な言い回しの違いに孔子の批評が含まれているとする。この前提は実のところほぼ確実に嘘なのだ。だからといって、その解説本たる左氏伝の価値は無くなるわけでもなく、歴史物語として読んでも十分に愉しめる内容なのだ。有名な逸話に「宋襄の仁」があり、無用の情けを表す慣用表現としても時々使われる。

 

「楚の人の軍隊が宋を伐って、宋・衛に攻められている鄭(てい)を救った。宋公(襄(じょう)公)が戦おうとしたとき、軍事を司る長官の大司馬の公孫固が諫めて、「天が宋の祖先である商(殷)王朝を見捨てて随分久しくなります。わが君は商を再興しようとなさっていますが、天から許されることではありません。楚を許してともに戦わない方がよろしいでしょう」と言った。襄公は聞き入れなかった。冬、十一月、・・宋公は泓水(おうすい)のほとりで戦った。宋の人の軍勢はすでに隊列を整えて戦闘態勢に入っていたが、楚の人の軍勢はまだ全軍が泓水を渡り切っていなかった。この様子をみて、好機到来とばかりに司馬は

「敵は多勢でわが方は少人数です。敵方がすっかりと渡り切らないうちに攻撃を仕掛けましょう」と言った。襄公は「それはいけない」といった。楚軍はすっかり渡りきったがまだ隊列を整えていなかった。司馬が攻撃するようにさらに勧告したが、公は「まだいけない」と言った。楚の軍隊が十分陣列を整えてからそこでやっと襄公の命令が出て楚軍に攻撃をしかけた。そのため宋の軍隊は大敗し、襄公は股に負傷し、卿大夫の子弟ものこらず戦死してしまった。国の人々は口々に襄公を非難した。襄公は「君子たるものは一度傷ついたものを重ねて傷つけることはしないし、白髪まじりの人を虜にしないものだ・・・信義が実現していた古の軍のありようは、険しい所や狭苦しい場所につけこんで敵を攻撃しなかった・・」と自分の信ずるところを言った。襄公の庶兄子魚は、「わが君は戦争の何たるかをご存じない」・・」 


左氏伝は「礼」を守った襄公を批判する立場にある。一方で擁護する立場の古典も存在するのだ。結局のところ、その判断は読み手の自由だろう。ただ、関羽の如き人物がこれを愛読し規範としたことを思えば価値があるように感ずるのだ。
若い頃の筆者にはそれだけで十分に読むに値する書物だったし、いまも結局それは変わらないのだ。


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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

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