温故知新~今も昔も変わりなく~【書評・第7回】 アリストテレス『政治学』(岩波書店,1988年)
正直なことを言えば、アリストテレスのことが嫌いだ。本コラムの第1回ではプラトンの「国家」を取り上げたが、若い時、初めて読んだ古代ギリシャ哲学がプラトンで良かったと思っている。もし最初にアリストテレスを手にしていたとすれば、おそらく挫折していたと思う。
アリストテレスは理屈に理屈を重ねるので読む側を辟易させることはかなり確実だ。現代において、アリストテレスを読むことができるのは、イスラム・アラブが勃興する以前よりビザンチン帝国(東ローマ)がこうした文献を大切にしてきたことに端を発する。ただ、当のビザンチン自体は、ギリシャ哲学の扱いに慎重な態度であったことはあまり知られてない。
キリスト教がビザンチンの中核的な価値として「内なる智恵」として貴ばれた一方で、ギリシャ哲学は「外なる智恵」として大切にはされたがどこか一線を隔されていた。それは理屈の洗練が持つ魅力が、人間の信仰に必ずしも良い影響を与えるとは限らないという警戒の念が働いたからなのかもしれない。
アリストテレスの「政治学」は日本の大学ではどうかわからないが、欧米などで政治学を学ぶ者が一度は触れる教科書的存在としていまだに君臨している。だが、通読しようと読み始めると、論がかなり複雑に入りこんでおり、かつて筆者などはイライラもしてくるし、そもそも悪文なのかと疑い、次に自分の頭の出来の問題かと疑い、最後にはどこか冷めた目で読む羽目になったことを覚えている。その「政治学」ではいろいろなことを扱うが、「人間はポリス的動物である」をベースに論及していく。
「ポリスは場所を共同にする団体でもなく、また互いに不正をしないことや物品交換のための共同体でもないことは明らかである。むしろそれらは、いやしくもポリスがあろうとする以上は、必然的に存しなければならない。が、しかしそれらがことごとく存しても、それで既にポリスが存するわけではない。いや完全で自足的な生活のために家族や氏族が善き生活に共同する時、始めてポリスが存するのである。けれども、このことは同一の場所に住み、互いに結婚しあうのでなければ、あり得ないだろう。この故にポリスのうちに親類団体や祭祀団体や社交団体が生じたのである。・・だからポリスの目的は善く生きることであるが、以上の諸団体はこの目的のためにあるのである。ポリスとは氏族や村落の完全で自足的な生活における共同である。そしてこれこそが、われわれの主張するように、幸福にそして立派に生きることなのである。したがってポリス的共同体は、共に生きることの為ではなく、立派な行為の為にあるとしなければならない」(「政治学」より)
アリストテレスの物の見方はポリスの中で生じる「われわれに見えること」、つまりは経験的事象をベースとする。そして、「政治学」も究極のところ人間と人間の関係で相互に如何に支配と被支配を確立しえるかということを焦点に根掘り葉掘りと論じていく。
プラトンが「われわれに見えること」の矩をこえてイデアの世界というぶっ飛んだものと直結して論じたのに比べれば、要は極めて常識的なことを言っているのだ。本来、常識的なことを理屈に理屈を重ねて論じているという構造に気付けば、「政治学」は壮大な「退屈しのぎ」になる。そして、言葉と理屈がどこまで本質を記述できるかを疑いながら学ぶ手本にもなる。結局、通読してもアリストテレスの真意も誠意もよくわからないが、やはりまあ読む価値はあるだろう。
***
筆者:西田陽一
1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。
0コメント