温故知新~今も昔も変わりなく~【第11回】 デフォー『ロビンソン・クルーソー』(岩波文庫,1971年)

28年と2カ月と19日のほとんどをたった一人、絶海の孤島で漂流生活を続けた物語。イギリスの小説家ダニエル・デフォーが18世紀前半に書いた作品だ。作品自体を知ってはいたが、私が読んだのは40歳を過ぎてからだ。きっかけは、経済学者 大塚久雄の「社会科学の方法―ウェーバーとマルクス」(岩波新書)を読み返していた折のことだった。そのなかに「経済人ロビンソン・クルーソウ」という題で大塚は論じる。


「さて、アダム・スミスが「国富論」を書くにあたって、前提にしてその「経済人」(ホモ・エコノミクス)という人間のタイプ、あるいは人間類型を知るためには、・・・「ロビンソン・クルーソー漂流記」を読んでは如何ですかと、いいたくなるのです」(Ⅱ経済人ロビンソン・クルーソウ)


これが気になり岩波文庫の「ロビンソン・クルーソー」を買い求めた。読書後の感想として強く沸き起こってきたのは、ロビンソンが漂流後たった一人で現実的な計画を立て、それに従って合理的に行動し、「経済的余剰」をさらに拡大していく「経済人」としての人間類型よりも、改心して信仰に生きようとしていく「宗教人」としての類型の側面だった。

社会の上層と下層の「中くらいの身分」の生活で中庸を享受するのが幸福であると説く父親の助言を無視して、冒険への渇望から無謀ともいえる船旅に出るも船が難破し、絶海の孤島にただ一人だけが流れ着く。難破した船から可能なかぎりの物を持ち出し道具とし、島に生息する山羊を捕まえて柵で囲い込み繁殖させ、難破した船から持ち出せた小麦も食べて消費してしまうのではなく、土を耕し播いて増やすことで生産へとつなげる。生き延びていく術を確実に身に着けていくのだ。


大塚は「自分一人になったあと、周期的に感傷的になっていることは人間として当然なことですが、しかし、彼は本質的に感傷的な人間ではありません」(同)

というくだりがあるが、これなどは感じ方の違いだろうが、正直、私などはまったくそう思わなかった。ロビンソンは島にたどり着いた当初はまずは食べていくだけで精一杯で他はなにも省みないが、食べていく目途がついたときに島に大きな地震がおき、続く瘧(おこり)や病を契機に内省と改心がおきてくる。

かつて「悪をさけようともせず、ただ愚かな魂の命ずるがままに生きてきた。そこいらにいる船乗りのなかでも、いちばん頑固で無鉄砲で無頼な人間の見本みたいな人間がじつに私だった」(上 ロビンソン・クルーソーの生涯と冒険)から、「「主よ、私を助けて下さい。はげしい苦しみにさいなまれている私を助けてください。」これがもし祈りといえるものなら、これこそ、永年の生涯を通じて私が神にささげた最初の祈りであった・・」」(同)へと、「貪り」から「祈り」へと変わっていくのだ。


ロビンソンはこれを境に難破船から持ち出していた聖書をはじめて紐解き「なやみの日に我をよべ、我なんぢを援けん。而してなんぢ我をあがむべし」との言葉を胸に刻んで孤独な信仰生活を歩み始める。ただ、この作品が面白いのは、この信仰が何度もブレて、そして揺らぐところだ。「人食い人種」の「蛮人」が島に上陸してきたこと、フライデイという従僕を持ったこと、島を脱出するまで都度おきる事々に、人としての弱さが出て、その信仰はたえず試される。そして、ロビンソンが感傷的人物だからこそ、揺らぎ慄きながらもその信仰は精錬されてつよくなる。後年、彼は「経済人」らしく「富」を積むことになるが、積んだのは目に見える「富」ばかりではなかったと思わせる。


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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

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