温故知新~今も昔も変わりなく~【第14回】 カント『道徳形而上学原論』(岩波文庫,1976年)
カントの哲学に触れたのは高校時代。骨太な倫理教師が熱く語ったことがきっかけだ。「カントの考えでは、自ら律することこそが自由の意味なんだ」こんなことを語っていた。当時、「自らを律することこそが自由」という表現に強いインパクトを受け、その勢いでカントを読もうとしたが、その難解さに鎧袖一触とばかりに挫折したのを覚えている。手に入りやすい岩波文庫の「道徳形而上学原論」(篠田英雄訳)は、表紙にこう書いてある。
「我が上なる星空と我が内なる道徳律」に限りなく思いを寄せたカント(1724-1804)が、善と悪、自由意志、自律、義務、人格と人間性など倫理学の根本問題を簡潔平易に論ずる。彼の倫理学上の主著「実践理性批判」への序論をなし、カント倫理学のみならず、またカント哲学全般にたいする最も手頃な入門書ともなっている」
誰がこの表紙を書いたのかは知らないが、問題は誰にとって「簡潔平易」で「入門書」なのかであり・・・はっきりいえば、いきなりこの本を読んでカントが分かりましたといえるとすれば、相当の秀才か、相当の鈍才かのどちらかになると思う。高校時代、カント哲学の壁はあまりにも高かったが、後年、私はカントに再挑戦を試みた。その頃には、もう少し学び方もスマートになり、まずはカントのエッセンスをわかりやすく解説している初学者向けの入門書を読むところからはじめて、次に「純粋理性批判」や「道徳形而上学原論」などへ歩みを進めた。今はなんとかそのエッセンスくらいは知っているつもりだ。
なお、今後、カントを学ぶ人のために、私の独断で現在手に入りやすいものを2冊ほど紹介するとすれば、「自由の哲学者カント~カント哲学入門「連続講義」」中山元著(光文社)と「カント入門」石川文康著(ちくま新書)を挙げておきたい。
さて、高潔な印象に惹かれ読み始め、徐々にわかりはじめて感動し、最後にとんでもない「重石」を背負わされたというのが「道徳形而上学原論」を読んだ感想だ。「道徳」を高めていく生き方、ふつうに「幸福」になっていく生き方は、ときに両方は成り立たないかもしれないが、そんなとき君はどちらを選ぶのだ?と厳しく迫られるようだ。この本のなかで「命法」という言葉がつかわれ、それは仮言命法と定言命法に大別される。「命法」とは「なすべし」という命令のかたちで表現される。
そして、「仮言命法」とは、「もしニューヨークに旅行に行きたければ、バイトして貯金しなければならない」のように、もし・・ならば、・・すべしという、現実的に可能な行為や意欲を前提とし、それに基づく目的があって手段があるという範囲のものだ。
「定言命法」とは、これとはまったく異なり、このもし・・ならば、という1節の表現が消えてしまい、ただ、・・・すべしという1節だけが残る。
カタイ言い方をすれば、「定言命法」は行為の内容や成果など無視して、行為をする意思、行為自体を生み出す原理だけに注目する。そして、道徳とは本来、このいかなる条件にも制限されない定言命法として表現され、故の自律であり自由なのだとする。こうなると「人から信用されたければ、うそをつくべきではない」が本当の道徳ではないことになる。ただ一言「うそをつくべきではない」だけになる。これをどう感じるかは読者次第。どちらも結果として同じことだ、いや動機こそが重要なのだ、と意見は割れるだろう。
なお、私は、カントの「我が上なる星空と我が内なる道徳律」に深い共感を覚え今日に至っている。
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筆者:西田陽一
1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。
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