温故知新~今も昔も変わりなく~【第15回】 中島敦『李陵』(岩波文庫,1994年)

詩人として名を成すことだけに執着した男が、哀れにも「虎」に身を落として、かつての友人に遭遇する「山月記」は教科書にも載っているからよく知られている。この作品を書いた中島敦のもう一つの代表作といえば短編小説「李陵」。これは、李陵、司馬遷、蘇武という3名の人物を軸に話は成り立っている。

中国・前漢の武帝時代、李陵は戦いの指揮統率にすぐれた名将、後世に「史記」編纂で知られる司馬遷は太史令という天文や暦を司る文官、蘇武は硬骨の士として評される武人。この3者がそれぞれ厳しい運命に翻弄されながら、直接間接に三つ巴のごとく絡み合い話が織り成されていく。話の一部を簡潔に述べるとこうだ。


武帝の気紛れから、李陵は北方に蠢動する数十万の匈奴討伐をわずか5千の手勢で討伐を命じられ、巧に奮戦敢闘するも最後は匈奴の王である単于に降伏を強いられる。かつては李陵を名将と称えたはずの武帝の臣下たちは、今度はそれを怪しからんと讒謗を重ねて李陵の名を貶しその一族を誅する。そんな佞臣たちの態度に怒り、特に親しくもない李陵を唯一弁護したのが司馬遷だったが、武帝の逆鱗に触れ、男として機能を奪われる宮刑(腐刑)に処される。蘇武は李陵が単于に降る一年前に外交使節として単于のもとに赴くが囚われの身となっていた。囚われたとき即座に自決を図るも助けられ、匈奴に仕えることを何度も説かれるが、「漢」に仕える節と意地を曲げずに、たった一人北海(バイカル湖)に追放され生きていた。この3者への試練はさらに続き、そこから浮かび上がるのは人それぞれが何に重きを置くかだ。


李陵は命を惜しんで軍門に降ったのではなく、隙があれば単于の首級をあげて漢にもどり名誉を保つことを考えた。だが、長い年月がその気持ちを萎え、単于に側近として厚遇され、漢にのこしてきた家族を誅殺されたことを聞くに及んで武帝をうらむ。

司馬遷は宮刑に処されたことを恥じ、武帝やその臣下をうらみ、自分をうらみ悶々するが、遂にそれを捨て、歴史を書くことだけに己を処す。

蘇武は、「牡羊(おひつじ)が乳を出さば帰るを許さん」といわれ追放され一人で野人の如き生活を十九年強いられてもなお変節せず、武帝崩御をきけば天を仰いで慟哭する。

3者それぞれがかつて漢の忠臣であったが、試練のなかで変わりゆくもの、変わらないものがあらわになる。人と何かを両天秤にかけるなら、司馬遷と蘇武は、天秤の片方にのせるものを変えていったようだ。司馬遷は武帝を超越して天道をもとめ歴史に生き、蘇武もまた武帝を奉じながらも、さらに先にある何かを求め努めて、それを全身全霊で体現する一瞬一瞬を生きた。だが、李陵だけは最後まで天秤のもう片方に人間武帝をのせつづけ、それを写し鏡にする以外に何も見出さなかった。


「論語」の言葉に「君子は器ならず」とあり、「易経」繋辞上伝に「形而上なる者を、これを道といい、形而下成る者を、これを器という」というものがある。安易に言ってはいけないが、ここから思うのは、司馬遷と蘇武は「武帝」を介してそれを超えた「道」を求め、李陵は武帝の如き「器」に拘り続けた。そういう意味では司馬遷と蘇武は君子で、李陵は君子ならずと評する・・・のはあまりに酷かもしれない。

一読してみるとわかるが、読者は司馬遷と蘇武の強烈な生き方に畏敬を抱くだろうが、一方で、多くは李陵の如き生き方にも同情を禁じ得ないだろう。だが、中島敦の李陵自身に対する最後の言及はきわめて淡泊にもみえる。


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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

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