温故知新~今も昔も変わりなく~【書評・第16回】 鈴木大拙『日本的霊性』(岩波文庫,1972年)
鎌倉にある東慶寺には、鈴木大拙、和辻哲郎、西田幾多郎などの日本の名だたる思想家たちが眠っている。なんとなくだが、世間で読まれている順位をこの三者でつけるならば、1位鈴木、2位和辻、3位西田だろう。ただ、私の独断と偏見で「難解だけど本当はスゴイことを言っている順位」をつけるなら、これを逆転させて1位西田、2位和辻、3位鈴木としたい。西田、和辻についてはまた別の機会に触れる。
故・梅原猛が「近代日本最大の仏教学者」と呼んだ鈴木大拙が生涯に書いた著作は100冊くらいあり、「禅」に関心を抱き読書する人なら、遅かれ早かれ鈴木大拙の本に出合うことになる。私自身はいつのことか忘れたが、大拙の著作を読みはじめた時は感動したことを覚えている。だが、歳を重ねて読み返してみると、今度は感動よりも疑問が湧いてくる。そんな一冊をあげるなら「日本的霊性」(岩波文庫)だ。
最近よく思うことがある。たとえば、本の中のある「キーワード」が強いインパクトこそあるが、同時に、強い抽象性を帯びており、その概念を十分に周知理解させないままに、著作がそのワードを繰り返し使用したとする。すると読み手側は、そのワードをなんとなくわかったつもりで、その実、棚上げしたまま漫然と読み進めて、その論理や展開を、その肝の是非を問うことなくいつしか受け入れてしまうことがある。この「日本的霊性」にもそんなリスクが潜んでいると思うのだ。大拙はこの本の最初の方で「日本的霊性」というキーワードを提示して、「霊性」という言葉について次のように言う。
「精神または心を物(物質)に対峙させた考えの中では、精神を物質に入れ、物質を精神に入れることができない。精神と物質との奥に、いま一つ何かを見なければならぬのである。二つのものが対峙する限り、矛盾・闘争・相克・相殺などいうことは免れない、それでは人間はどうしても生きていくわけにいかない。なにか二つのものを包んで、二つのものがひっきょうずるに二つでなくて一つであり、また一つであってそのまま二つであるということを見るものがなくてならぬ。これが霊性である。今までの二元的世界が、相克し相殺しないで、互譲し交歓し相即相入するようになるのは、人間霊性の覚醒にまつよりほかないのである」(緒言)
この霊性の定義をスンナリ受け入れるかどうかは読み手の力量次第といわれたらそれまでだが、このワードを是として話は次々と展開されていく。「古代の日本人には、本当に言う宗教はなかった。彼らは極めて素朴な自然児であった」とし、浄土系思想や禅が強くなった鎌倉時代が霊性の目覚め起点であり、それ以前の日本は情性的生活だとする。
万葉集は「嬰孩性を脱却せず」(子供っぽさ)、神道は「伝統的な原始的感情以外にまだ一歩出ていない」、物語・日記は「何かというと涙ばかり出している平安朝の弱虫公卿の泣言にほかならぬ」、大拙は「日本的霊性」という言葉を繰り返し使いながらバッサリ斬りこんでいく。
私がふと大拙に言いたいのは、「大拙さん、大拙さん、「霊性」や「日本的霊性」なるものは、そもそも、さほどのものでありましょうか?」、さらには、「「霊性」「日本的霊性」の前提には今でいう「個人」ありきで、「個人」という観点からあまりに強く物事を見すぎていませんか?」ということだ。結局、大拙自身が個人の持つ「自我・自尊」にあまりに囚われていたのではないかと思ってしまう。辛口な大拙評だが、好事家の戯れ言として一笑に付してもらいたい。
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筆者:西田陽一
1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。
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