温故知新~今も昔も変わりなく~【書評・第25回】 宮沢賢治『銀河鉄道の夜』(新潮文庫,1989年)
「銀河鉄道の夜」はむつかしい作品だ。ジョバンニとカムラパネラが乗り込む銀河鉄道の汽車に、次々と不思議な乗客たちが相乗りしてきて会話となる。ところどころ一見成立しているようで、まったく噛み合ってない会話に特徴があるようだ。なかでも、気のよさそうな燈台守と、少女と小さな男の子を連れた敬虔そうにみえる青年との会話は、まったくあべこべのように思う。
「なにがしあわせかわからないのです。ほんとうにどんなつらいことでもそれがただしいみちを進む中でのできごとなら、峠の上りも下りもみんなほんとうの幸福に近づく一あしずつですから」
燈台守がなぐさめていました。
「ああそうです。ただいちばんのさいわいに至るためにいろいろのかなしみもみんなおぼしめしです」
青年が祈るようにそう答えました。
上の会話に出てくる「ほんとうの幸福」と「いちばんのさいわい」は、実のところ宇宙空間でもかなり隔たりをもって、互いに異なったことを話しているように思う。この二つの言葉に対して、私なりにコンテクストを読みながら勝手に「枕詞」(マクラコトバ)をつけるなら、
「ひとそれぞれ」の「ほんとうの幸福」に対して、
「一つのみ」の「いちばんのさいわい」となりそうだ。
青年はなぜ銀河鉄道の汽車に乗ることになったかを、燈台守と、ジョバンニ、カムラパネラに告白する。
「いえ、氷山にぶつかって船が沈みましてね。わたしたちはこちらのお父さんが急な用で二カ月前一足さきに本国へお帰りになったのであとから発ったのです。私は大学へはいっていて、家庭教師にやとわれていたのです。ところが十二日目、今日か昨日あたりです。船が氷山にぶつかって一ぺんに傾きもう沈みかけました。・・・私は必死となって、どうか小さな人たちを乗せてくださいと叫びました。近くの人たちはすぐみちを開いてそして子供たちのために祈って呉れました。けれどもそこからボートまでのところにはまだまだ小さな子供たちや親たちやなんか居て、とても押しのける勇気がなかったのです。・・・けれどもそんなにして助けてあげるよりはこのまま神のお前にみんな行く方がこの方たちの幸福だとも思いました。・・・そのうち船はもうずんずん沈みますから、私はもうすっかり覚悟してこの人たち二人を抱いて、浮かべるだけは浮かぼうと・・・それからぼうっとしたと思ったらもうここへ来ていたのです。・・・ええボートはきっと助かったに違いありません。・・」
「銀河鉄道の夜」は永らく愛されてきているし、活字以外でアニメにもなっている。アニメ版はその冒頭で「文部省特撰」といったテロップが大きく踊って本編に入る。一体どんな基準で特撰とされるのかは知らないが、この作品の持つ怖さと深さをどこまで考えて選んだのだろうとふと思ってしまう。アニメではこの青年の告白シーンを、涙が自然と誘われるような平均的な絵構図と音楽挿入、優しそうな青年の表情で描いている。
だが、宮沢賢治が描いたのはそういうものなのだろうか・・・私は、何度か読むうちにそうとも思えなくなった。青年は自らが信じたものに従って殉じることは「いちばんのさいわい」かもしれない。だが、少女と小さな男の子についてはもう少し違ったものが浮かび上がらないだろうか。「銀河鉄道の夜」についてプロたちの研究にどのようなものあるのか正直なところ興味がない。ただ、文学には自由な解釈が許されるとして、私には青年が少女と小さな男の子を「いちばんのさいわい」へと巻き込んだようにも思えてしまう。
「・・・私はもうすっかり覚悟してこの人たち二人を抱いて、浮かべるだけは浮かぼうと・・・」
多分、何かが違う。
正解はないが、「僕は“いちばんのさいわい”に殉じるが、君たちは「ほんとうの幸福」を求めなさい・・」も一つの選択肢。
銀河鉄道がサザンクロス駅に着くと、青年は少女と男の子を連れ立って降りようとするが、男の子は少し抵抗する。
「僕もう少し汽車へ乗ってるんだよ」
・・・
「ここでおりなけぁいけないのです」青年はきちっと口を結んで男の子を見おろしながら云いました。
「厭だい。僕もう少し汽車へ乗ってから行くんだい」
この二人のやりとり、「ほんとうの幸福」と「いちばんのさいわい」の角逐のようにもみえてしまう。
アニメで描かれる青年は柔和な好青年。ただ、私にはまったく違った青年の表情が浮かんでくる。
***
筆者:西田陽一
1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。
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