論語よみの論語知らず【第3回】「民は之に由ら使むべし」

長い歴史の中で、ときにつよく尊ばれ、ときに焼き捨てられた論語。そのシンプルな表現ゆえに、多様な解釈を生み、誤解を生じさせて批判されることもある。


「子曰く、民は之に由ら使む可し。之を知ら使む可からず」(泰伯篇8-9)


【現代語訳】

老先生の教え。人々に対して、政策に従わせることはできるが、政策(の意義・目的など)を理解させるとなると、なかなかできない(加地伸行訳)

 

この一文は、人々を愚民のように扱うとして、ときに批判の対象になってきた。はっきりいうと論語の考え方では人を「君子」と「小人」に分ける。ただし、これは社会的地位や富・名声とは本来関係ない。「仁」に生きて大局を思うか、「利」に生きることのみを志すかで、前者と後者に分類するのだ。論語は君子の人格に言葉が伴って、そして小人を導いていく社会を規範としている。裏返していえば、当初、両者が同じ志をもって生きていることを期待していないのだ。

一方で同じ時代、同じ志を多くの人々に公平に求める社会もあった。東から西に目を転ずれば、僭主制から民主制の産声をあげていた古代ギリシャのアテナイ。ここでは、民主制を保つため、市民団全員が政治に直接参加してコミットすることを求められた。その象徴的存在ともいえる民会では、何千という市民団があつまり、その自由意思で演台にたち、次々と弁論をぶっては多数決で政策が決まった。この直接民主制では、ときに人々が興奮し暴走することもあり、昨日までの英雄を罪人として断罪し処刑台送りにするなど気まぐれを起こしながらも、アテナイはこのやり方をマケドニアに敗れて廃止されるまで長く維持し続けた。人々は弁舌を駆使して、積極かつ熱烈に政治にコミットしていたように思われがちだが、実のところ古い本にこんな話もある。

「連中はアゴラ(市場)でぺちゃくちゃおしゃべりしながら、赤い泥を塗ったロープをよけようと、坂を上ったり下りたりして逃げ回っているありさまだ」(「アカルナイの人々」アリストパネスより)


どうも市民が民会へ参加する態度はつねには褒められるものとはいえなかったようだ。人々はアゴラから議場のある丘へつづく坂道を、面倒がっていつまでも登らずアゴラにたむろしていた。仕方なく政府は苦肉の策として赤い泥を塗りつけた長いロープを用意し、それぞれの端を兵士たちに持たせて横一線にピンと張らせ、それでもってくずぐずとたむろする市民を議場へと追い立てていく。そしてこの泥がついたものは罰金を支払わされるというやや滑稽なシステムで直接民主制を担保していた。

 

さて2500年後の世界、今は民主制が主流の時代だ。「君子」「小人」どちらを志すのも自由で、赤い泥を塗ったロープもなく政治的権利の行使の是非も自由だ。もちろん言葉の駆使も自由だし、そして「論語」を尊ぶのも焼き捨てるのも自由なのかもしれない。もっとも物好きな筆者としては、

「民は之に由ら使む可し。之を知ら使む可からず」を
「まず自分の人間性を信じて受け入れてもらいなさい。ただし、言葉だけで繕おうとせずに!」
と思い切り意訳をすることで態度表明としたいが。

論語は読み手の数だけ解釈は数多で自由ということでよいのかもしれない。もっとも、解釈の数とイコールで真摯な覚悟と実践があるとは言い切れないかもしれないけども。


***

 

筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

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