論語よみの論語知らず【第5回】「かつて終日食らわず」
社会学者として名を立てた小室直樹は、「論語の世界とは、政治がうまくいけば社会はすべて丸くおさまるという考えだ」とバッサリ評した。その政治をうまくおこなうための前提として、論語はスーパーマンのような超人が生まれることを期待せず、読書や思索をベースに地道に人格を磨いた「君子」を想起し、君子が中心になって政治を行うことをつよく期待した。
「子曰く、吾嘗て終日食らわず、終夜寝ねず、以て思うも益無し。学ぶに如かざるなり」(衛霊公篇15-31)
【現代語訳】
老先生の教え。私は、一日中食べることもせず、一晩中眠ることもせず、ひたすら考え続けたが、得るところがなかった。それよりは、学習することだ(加地伸行訳)
一方で、この一文は、読書や思索だけに浸ることを戒めたものだと思う。一人が全身全霊で考えに考え極めゆくこと。言葉にするのは簡単だが実際は非常に難しい。たとえば一人書斎にこもり、何かについて考え抜いて言葉に変換していく作業、それが深遠なテーマであれば、言葉だけを頼りに探り当て行く旅路はとても厳しい。仮に苦心惨憺の思考の産物でも、「その磨き積み上げた言葉は本当に価値があるのか」と問うているようだ。
孔子の素朴な言葉は、弟子たちの手で「論語」にまとめられ、時の移ろいのなかで学者があれこれと訓詁や注釈を増やし、権威を帯びて儒学となり、いつしかまるで「神学」となった。宋の時代の朱子学では、物事の根本を知る起点を「格物」と定義し大切に持ち上げた。だが、明の時代、王陽明という人は、はたして人間にその格物なるものが本当に実践できるものかと疑い試してみた。
よく知られているエピソードに、「竹の理の研究」というものがある。王陽明が若いころ友人ともに、「天下の物をきわめることが必要だが、いますぐにそれだけの力量が伴わないから、まずは庭先にある竹をさだめてその理をきわめよう」と考えた。2人は朝から晩まで、ひたすらに竹のことを考え続けた。友人は3日目にダウンしたが、それは精神力が未熟にすぎないからだと王陽明はさらに頑張り続け、とうとう7日目にノイローゼになった。これをもって王陽明は「いたずらに思考力を弄んでも、凡人には徒労におわる」とした。学習とは、ただ一人だけでひたすらに考えぬくことだけではない。社会のなかで、トライ&エラーを背中合わせに生きないと独善的になる。
孔子の言わんとしているのはこんなところだろうか。孔子は書物に向き合った人だが、弟子に囲まれ、諸国を遍歴して人々と向き合った姿が筆者にはイメージしやすい。古代ギリシャの哲学者、アリストテレスの言葉「人間はポリス的動物である」にもあるように、人は社会に生きるもの。知はそこで活かすもので、その重責は君子が背負うべきだと孔子は考えていたのではないか。この意味で、君子は厭世や隠遁といったものとは無縁だ。「集団のなかでとんがって生きる」というきわめて厳しい個人主義を求めた人が、孔子なのかもしれない。
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筆者:西田陽一
1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。
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