論語よみの論語知らず【第8回】「仁に当たりては」

仁義という言葉は、現代ではごく限られた「職種」の人たちがつかうか、特定ジャンルの映画のなかで使われる程度になっているかもしれない。もともと「仁」と「義」は別物であるが、このあたりも一緒くたにされる傾向にある。論語では「仁」という言葉が頻出する。仁が何であるかを問い、いかにして至るかについて、師匠の孔子とその弟子たちは問答を続ける。弟子たちのさまざまな境涯(レベル)に応じて峻厳と温順を巧みに使い分けて教え導いていくのが孔子のスタイルだが、その師弟関係はどのようなものであったのだろうか。

 

今日、師弟関係といえば、伝統芸能や武道、茶道などの「道」がつくもののなかにまだ残っている。一般的には「厳しい上下関係」という表現にそのイメージが集約されるかと思う。おそらく、孔子と弟子たちのそれも、親近、敬慕に違いがあったにせよ本質的には同じようなものだっただろう。そして、師匠たる孔子はその一門のなかで圧倒的尊敬をあつめ、信じて仰ぎ見られる対象であったと思う。特に孔子の晩年は、その学団の規模も大きくなったことから、師匠の立ち位置が絶対的なものになっていっただろう。そして師匠の一挙手一投足、その言行を絶対的価値として単純に受け入れるばかりで、自らしっかりと考えることをしなくなった弟子たちがいたことも想像に難くない。そんな事実を、孔子はどのように受け止めていたのだろうか。


「子曰く、仁に当たりては、師にも譲らず」(衛霊公篇15-36)


【現代語訳】

老先生の教え。道徳(仁。人の道)の実践においては、(それが正しい以上、)たとい師に対してであっても一歩も譲らない

 

この一文は、孔子が「仁」を行うのに「楽」(ラク)をするなと戒めたものだと思う。師匠が間違いを起こさないものと偶像化して、その延長に独善的な「仁」などを設定して安心するな。「仁」が何たるかを一人でも求めていく気概を持ち続けろ。ときにこう叫びたかったのではないだろうか。孔子も人であるから、若年、壮年、老年と、心持や境涯とともにその人当りも変化していった。貧しさに端を発する若いころの苛烈な気性も、多くの弟子に囲まれた老年には穏健になっている。孔子が老年になってから入ってきた弟子たちは、とかく丸くなった孔子に接することが恒常となり、その姿に憧れマネすることに満足するものもいただろう。

若いのに、いたずらに形だけ成熟したフリをしてはいけない。自分はいまや老熟したが、若い弟子たちは心の底にある苛烈なものをただ押し殺して穏健を装うな。その苛烈なものをもって仁と向き合え。それが「仁に当たりては、師にも譲らず」の本音ではないだろうか。

 

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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

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