論語読みの論語知らず【第14回】「その父、羊をぬすみて」

ある独裁国家では、子が親を敬う以上に、独裁者を敬うことを幼少より徹底的に教え込む。その結果として、親が隠れて独裁者の悪口をいうのを、子が聞きとがめて告発することもときにはおきるらしい。そんな社会では親子は一生涯胸襟を開いて語り合うことは難しいだろう。一方で、親子の血縁関係こそが人間の基本とする考えは古くからあるし、論語はその典型的モデルでもある。世の中では、親子が庇い合うことはよくあるがそれを巡ってこんな一文が論語にある。

 

「葉公 孔子に語げて曰く、吾が党に直躬なる者有り。其の父 羊をぬすみて、子 之を証せり、と。孔子曰く、吾が党の直なる者は、是に異なり。父は子の為に隠し、子は父の為に隠す。直は其の中に在り、と」(子路篇13-18)

 

【現代語訳】

葉殿は孔先生にこう弁じられた。「私の郷里の中に、それはもうまっすぐな者がおりましての。父親が羊を盗みましたとき、その子の父が盗んだに相違ありませぬと証言しましたわい」と。孔先生はおっしゃられた。「わが郷里のまっすぐな者は、それと違いまする。(仮に盗みがあったとしますと)父は子の悪事を隠し、子は父の悪事を隠します。(まっすぐ)(直)の真の意味はそこに在ります」と(加地伸行訳)

 

筆者が主宰する読書会で論語を題材としたときに、この一文を用いてメンバーと議論をおこなった。多数が孔子の考えを支持し、少数が葉公の考えを支持した。この問題の背景になにが隠れているかをみなで考えさせるために、筆者は少しばかり仮定を加えた。

「もし、親の窃盗を証言しても、始末書程度の罰で済む場合ならどうする?」
次に「もし、親の窃盗を証言したら、親が極刑に処せられる可能性が大ならどうする?」

前者の仮定では、孔子の支持者がゆれうごいて、まあ、そのくらいなら親を証言しても良いかと思う者があらわれ、後者の仮定では、葉公の支持者が、極刑ならば親の盗みを証言しないと態度を変えた。もちろん、当初の選択を変えずに頑張るものたちも少しだけいた。当初、自分たちの選択にきちんとした根拠があると考えていたメンバーは、仮定を加えて状況を変化させると、自分たちが揺れ動くことに戸惑いを感じたようだ。

そして議論は、親子関係と法律順守どちらを優先するかは絶対の基準になりえず、そのときのコンテクストのなかで考えていくのでも良いのではないかという中庸論らしきものに落ち着きかけた。すると、筆者はさらに仮定を加えた。

「もし、親の窃盗が「羊」でなく、「国」を盗む(国を売る)ような大罪ならどうするか。」

こうなると、孔子の支持者がつよく動揺した。親子関係をとるか、法律を取るかではなく、一体何が正しいのかという根源をめぐる議論となった。そのときメンバーの一人が発言をした。

「罰則の軽重を問うよりも、まず過ちを心から反省させることに重きを置くべきではないでしょうか。」

つまりは、看過しえない罪であれば、真剣に諭して深く反省をさせることが一義で、告発し法に基づき罰するだけが能ではないとの主旨だった。すると読書会は法的処罰と悔悟の問題をめぐり雰囲気がまた大きく変わったのだ。

なお、孔子は親が絶対に過ちを犯さないなどとは言っていないし、盲従せよともいってない。過ちにはきちんとした態度で諭すべきだといっているのだ。ときに、古典をつかって道徳的な思考実験をしてみるとなかなか興味深い議論になる。かなり曲がりくねった議論になるが、引いて見ればこれもきっと真っすぐなのだ。

 

***

 

筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

~ 誠実に対話を行い 真剣に戦略を考え 目的の達成へ繋ぐ ~ We are committed to … Frame the scheme by a "back and forth" dialogue Invite participants in the strategic timing Advance the objective for your further success

0コメント

  • 1000 / 1000