論語読みの論語知らず【第16回】「苗にして秀でざる者、有るかな」

宿命と運命。意識してこれらの言葉を使い分けている人のほうが少ないだろう。人によっては宿命とはもとより宿るもので、変わりようがなく、運命とは運ばれうるもので、変えようがあると使い分けをするケースもある。もちろん、同義語で使っても何も問題はないだろう。定まっていて変えようのないこと、定まってはいるようにみえても変えようのあること、生きていく中でそれらをどう考えるかはその人の信念や価値観によるかもしれない。孔子という人はそのあたりはどのような考えを持っていたのだろうか。こんな言葉がある。

 

「子曰く、苗にして秀でざる者、有るかな。秀でても実らざる者、有るかな」(子罕篇9-22)


【現代語訳】

老先生の教え。苗の中には、(途中で枯れて)花の咲かないものもある。花が咲いても(秀)、実をつけないで終わるものもあるぞ


この言葉は孔子がもっとも期待をしており、「一を聞いて十を知る」と評された弟子の顔回が若くして亡くなったことを哀しんだことによって発したという解釈が主流のようだ。筆者としてはあまりそれにはこだわらず、孔子自身の歩みに合わせてもう少し拡大して考えたい。因果律や合理性に慣れ親しんだ現代社会では、科学に限らず、世間一般の物事についてもデータを集めて観察して考察をかさね理論化して、そこからノウハウが次々と生み出されていく。ビジネスやマーケティングなどの分野ではどのくらいの理論やノウハウが生み出されているのか正直よくわからない。ただ、どれほどそうした理論がノウハウを巧みに活用したとしても、現実には期待や望み通りにことが運ばないこともよくあるし、まったく予期してなかったような結果になることもある。自然を相手にするのではなく、人間を相手にしている以上は仕方のないことだ。


孔子自身の一生は、個人としての願望達成からすれば及第点くらいなのだろうか。若いときから世に出ようとするも、なかなかうまくいかない。壮年になり、司法大臣に比するポストについて、古代の周王朝の理想を復元しようとするも、道半ばで権力闘争に敗れて祖国である魯を追われる。その後は弟子たちとともに中国全土を放浪しながら、自らを登用してくれる国を探すも受け入れるところとならない。失意を覚えつつも祖国に戻り弟子の育成と古典の編纂に余生をかけた。

そして結果的には孔子本人があずかり知らぬところで「論語」が後世に残される。はたからみえる孔子個人の願望と努力、一方で、この人の一生の歩みを比すれば、ただ宿命や運命に翻弄されただけにみえるかもしれない。ただ、予期しえないものに揉まれながらも、これらを恬淡として受け入れてく境涯(心境)の変化(成長)といった価値を人は見逃しやすい。


さて、苗として生まれて、花も咲かさず、実もつけずに終わっても、一生懸命努力したことにはかわりない。自分が望んだものを達成したわけではなくとも、努力のプロセスに道を求め続けたことだけは間違いない。そして、そんな「実らざる者」が、周りの苗たちが影響を与えることは多いにある。これはときに表向きに認識できる因果律や合理性などで必ずしも言語表現できないかもしれないが、決して無価値などではないのだと。そんな含意も、筆者個人はこの一文に勝手に感じ取っている。


***

 

筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

~ 誠実に対話を行い 真剣に戦略を考え 目的の達成へ繋ぐ ~ We are committed to … Frame the scheme by a "back and forth" dialogue Invite participants in the strategic timing Advance the objective for your further success

0コメント

  • 1000 / 1000