論語読みの論語知らず【第31回】「すなわち怨み遠ざかる」

官・民を問わずプロジェクトや事業で成功したとき、「自らがその仕事に関わった」という人は多く名乗り出てくる。一方で、失敗したときはその正反対の事象となり、責任者探しとそれの押し付け合いが始まる。人間の持つ性なのか、昔からそのようなケースは枚挙にいとまがないし、現代もさして変わりはないだろう。こうした中で、人や組織をどうマネジメントしていくべきかについては色々あるが、徳治主義の立場からの示唆に富む一文が論語にある。


子曰く、躬(み)自ら厚くして、薄く人を責むれば、則ち怨みに遠ざかる」(衛霊公篇15-15)


【現代語訳】

老先生の教え。自分の責任を問うことは厳しくし、他者のそれは穏やかにすれば、人から怨まれることがなくなるであろう(加地伸行訳)


たとえば、どこかの現場で社会的にインパクトのある失敗やスキャンダルを起こしてしまったとする。すると、そのヒエラルキーの頂点に位置しており、直接マネジメントをする立場になく、普段はその現場の存在自体をほとんど関知しないトップが、「私の不徳と致す所で・・・慙愧の念にたえません」といった対外的にお詫びの言葉を述べるパターンがある。ただし、こうした言葉をトップが述べる場合、その道義的責任こそ問われるが、法的責任や処罰を重く受け、立場を失わないよう事前に「お膳立て」の有無が鍵となる。

実のところ「徳治主義」は、この鍵を担うスタッフに能力があることが大前提になるのだ。その上で、自らが至らなかったことを恥じて対外的に認めて頭を下げたうえで、必要以上に苛烈に現場を罰する社会的圧力を緩和させるというやり方だ。そして、現場もまた自らの責任を認めるトップの姿勢をみて在り方を自主的に改善する動きと、組織内に必要以上の緊張や摩擦を生まれることを防止することを期する。


一方で、徹底的な信賞必罰を求めるやり方もある。戦国時代の韓非子に代表される「法家」の考え方だ。トップと現場の間に自然と醸成される信頼などはそもそも期待せず、明確なルールとそれを「公正」に適用することで失敗やスキャンダルをそもそも防ぎ、それが起きてしまった場合もルール通りに手を緩めずに現場を罰するという方法だ。くだけていえば、「トカゲのしっぽ切り」の論理ともいえる。ここには明確な相互不信が前提としてある。韓非子の「外儲説篇」に申不害のかたった言葉としてこのようなものがある。


君主が賢明であるとわかれば、人々はそれに応じて用心し、君主が賢明でないとわかれば、人々は君主をだましにかかる。君主があることを知っているとみれば、人々はそのことをあれこれと飾り立て、君主が知らぬとみれば、人々はそのことを隠してしまう・・・


ここにあるのは文字通り、「上下一日に百戦」、トップと現場では利害が異なり、摩擦が常に生じているという見方に基づくのだ。

さて、どちらのやり方が結果としてうまくいくかを論ずるのは難しい。孔子は大臣相当にまでなったが、改革途中で失脚し、以後は政界での志は遂げられずに、最後は弟子たちに囲まれて亡くなった。だが、「論語」を遺し、現代に至るまで、志を持つ者を生み出す格好になった。一方の「法家」の代表格とし商鞅などの存在をあげるならば、徹底した信賞必罰で改革は一時の成功を残したが、最後は恨みを買い、四肢を切り裂かれる車裂きの刑に処せられた。後に司馬遷によって「史記」のなかにその名を遺された。だが、商鞅を評する司馬遷の舌鋒は鋭いのだ。


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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

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