論語読みの論語知らず【第34回】「徳ある者は、必ず言あり。言有る者は、必ずしも徳あらず・・・」
言葉を手段として、上手に並び立てることができれば、何かを「論証」はできるだろう。勇気と称するものを手段として、派手に行動することで、何かを「証明」することもできるだろう。言葉が一定のカタチに整えられれば、世間では一応の納得を得ることはできる。時間とコストをかければ、カタチのうえにカタチを重ねて飾りをつけることも可能だ。たとえば、十分な下準備と演出が行き届いた舞台で、言葉の形式と論理がしっかりと整えられ、聴かせるテクニックに長けたプレゼンや演説に対して、人は喝采をおくり賛意と共感を示しやすい。
もっとも、カタチの整った言葉がいつも真実を語っているとは限らないのだ。勇気と称するものも同じかもしれない。たとえば、武闘派を称する者が命がけの喧嘩や果し合いを誇りにするかもしれない。だからといって、今度は、多数が乗る救命ボートで、誰か一人だけがボートから水面に飛び込まなければ、ボート自体が沈むという局面において、それができるとは限らないのだ。勇気にも蛮勇と真勇といった振れ幅はきっとあるだろう。言葉にせよ、勇気にせよ、それらをただの手段として使うのか、それ以上のなにかに紐づくべきものなのかを深く問う言葉が論語にある。
「子曰く、徳有る者は、必ず言有り。言有る者は、必ずしも徳有らず。仁者は必ず勇有り。勇者必ずしも仁有らず」(憲問篇14-4)
【現代語訳】
真実のある人の言葉は必ず美しいものである。しかし、言葉の美しい者に必ず真実があるとはいえない。また、真理に忠実な者は必ず勇気に富むものである。しかし、勇気のある者のすべてが真理に忠実であるとは限らない(五十沢二郎訳)
人は生まれてしばらくすると言葉を学び始める。個人差はあるだろうが、どんどん言葉を覚えて、若くして話す言葉、書く言葉も巧にあやつる人もいる。だが、言葉の意味を知っていることが、その重みや深みに必ずしも到達しているわけでもない。言葉の意味することを身でもって感ずるのは、どこか経験を積み重ねていくことに比例するのかもしれない。
プロイセンの将軍だったクラウゼヴィッツは、戦争において「勇敢」という言葉を称揚し、一方で「偉くなればなるほどに失われがちの要素であるの」と喝破した。一般的に、偉くなるほどに、デスクに座る知的労働が増え、一方で寒風酷暑を肉体的に感じる環境がすくなくなる。さらには、加齢による体力低下とともに気力が失われていく。だが、これはもしかすると血気盛んでときに蛮勇にちかい勇気が、無駄な角がとれ、普段は静かに鎮まり、一見枯れてみえるが真勇に近いものへと変化していくこともあるだろう。
ただ、馬齢を重ねるという言葉のごとく、齢が何かを絶対に保証するわけでもなく、それと関係なく真実と真理を見抜く者はいるかもしれない。だが、普通は、言葉と勇気にはベクトルの定まらない時期があるとは思う。そして、そのベクトルを定めて真実や真理に進もうとするときに、根本的に何かが変わるのかもしれない。
ただ、言葉や勇気を術として、真実や真理のカタチを造っていくのか、それとも、本来どこかに隠れているそれらが、言葉や勇気のベクトルが調和したとき顕現してくるのか鶏が先か卵が先かの如き難問だ。それでも人は答えの出ない問を好むものなのだ・・とある哲学者がいっていた。
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筆者:西田陽一
1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。
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