論語読みの論語知らず【第37回】「君子は刑を懐い、小人は恵みを懐う」

謝罪会見なるものがいつから存在したのかはよく知らない。ある芸人さんの「ビジネス」に端を発し会見が行われ、次は、「契約」を交わしていた会社のトップが会見をする。筆者はこの件の真相が何であるかに関心はなく誰かを批難する気もない。ただ、会見や周辺のオピニオンを眺めていて、その論点が変ることの早さに驚くだけだ。意識しなければ、論点が次々とすり替えられていくことに気づかなくなる。これらの裏に誰がいて、どのようなシナリオがあり、イメージ操作があり、利益・権力闘争があるのか知らないが、表むきは、法的問題、社会的正義、道徳・倫理、憐憫のどこをアピールするか、参加者多数の綱引き合戦にみえる。この多忙な時代、論点をすり替えるための仕掛けや目くらましがたくさんある。それを見破るテクニック・・のようなビジネス書もありそうだが、古典でそれのトレーニングに適切な一冊といえばプラトンの「国家」がそうかもしれない。


この本は、「正義とは何か」という話から始まり、主人公のソクラテスと周りの人々が大激論を交わすものだ。個人として正義の問題から、社会全体、国全体の正義といった問題に転換していくなかで、その論点や扱う材料が目まぐるしく変わりゆき、読んでいる側がヘロヘロになる。ソクラテスが長い弁舌をふるい正義の貴さを説けば、読み手はもうそれを受け入れたくなるが、今度はそれに対する手ごわい反論がくる。


節制や正義はたしかに美しい、しかしそれは困難で骨の折れるものだ、これに対して放埓や不正は快いものであり、たやすく自分のものとなる、それが醜いとされるのは世間の思わくと法律・習慣のうえのことにすぎないのだ、ということです」(364A)


・・一般には、みずからすすんで正しい人間であろうとする者など一人もいないのだ、ただ勇気がなかったり、年をとっていたり、その他何らかの弱さをもっていたりするために、不正行為を非難するけれども、それは要するに、不正をはたらくだけの力が自分にはないからなのだ、ということを。これがありのままの事実だということは、明白です。なにしろ、そういうふうに不正を非難している連中は、ひとたび力を獲得するや、たちまち誰よりもさきに、できるかぎりの不正をはたらくのですから」(366D) 


この作品は理想の「国」とはどうあるかを議論する。そしてそこに住む人たちは3つの階層にわかれるのだ。その中では、「文芸」の在り方も議論され基準が決まり、それに反する下品な芸人は社会的に存在が許されなくなってしまうのだ。ちなみにプラトンより100年少し先輩の孔子の言葉に次のようなものがある。


「子曰く、君子は徳を懐(おも)い、小人は土を懐う。君子は刑を懐い、小人は恵みを懐う」(里仁篇4-11)


【現代語訳】

老先生の教え。君子は善く生きたい(徳)と願うが、小人は(地位や豊かな生活の)安泰(土)を願う。君子は責任を取る(刑)覚悟するが、小人は(お目こぼし(恵)で)なんとか逃れたいと思う


近代以降、普遍という言葉とともに、人々は「平等」であることになった。大いに結構だが、君子と小人を明確に分けるこの言葉を、差別とみるか、区別とみるか、生き方や志の問題かもしれない。そのような差異を普遍と平等の名のもとに許さないとすれば何かおかしい。皆が君子の社会もないし、皆が小人の社会もない。法は平等に適用されるべきで、さて道徳と倫理は・・ただ、「国家」は読み継がれてきている古典であることは不動の事実でもあるのだ。


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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

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