温故知新~今も昔も変わりなく~【第22回】 陸奥宗光『蹇蹇録』(岩波文庫,1983年)

人を評するにあっては辛口の勝海舟が、「氷川清話」のなかで挽歌(死者を悼む歌)をただ一人にだけ詠んだ。外務大臣・陸奥宗光といえば、教科書では「不平等条約改正」で記憶されていることが多い。たとえば、西郷隆盛なら「敬天愛人」の言葉で、その人のイメージが湧くだろうが、「陸奥宗光=条約改正」の紐づけだとその人物像が浮かび上がりはしない。

理想主義者と現実主義者という二つのくくりで人を分けたとする。実際に人間がそれほど単純に割り切れるものでもないが、あえてそうするなら、西郷さんは理想主義者のイメージで、一方の陸奥宗光は現実主義者に振り分けられるだろう。そして、だいたい歴史のなかでは現実主義者は人気者にはなれないようだ。


歴史には「何々史観」という言葉がある。近現代史だけでも、皇国史観、薩長史観、マルクス主義史観、反体制史観、左翼史観などなどちょっとした定食屋のメニューの如きだ。もっとも食べたいもの選んで頼むのと違って、ふつうは歴史を読むときに「何々史観」でもってそれを喰らおう・・・などとは意識はしない。無論、私は自由適当なつまみ食いだ。


さて、徹底した現実主義者が残した回想録(自伝)の中で、今日でも十分に読み手を唸らせる一冊をあげろといわれたら、陸奥宗光が自分で書いた「蹇蹇録」(けんけんろく・日清戦争外交秘録)を選ぶ。時は食うか食われるかの「帝国主義」時代のピークで、日本と清国は朝鮮でおきた東学党の乱を期に緊張し、そして日清戦争へ突入する。世論が盛り上がる中で、陸奥は戦争をなんの為にするかをしかと見極めてクールに回想する。


我が国朝野の議論、実に翕然(きゅうぜん)一致し、その言う所を聴くに概ね朝鮮は我が隣邦なり、我が国は多少の艱難に際会するも隣邦の友誼に対しこれを扶助する義侠国たる帝国としてこれ避くべからず、といわざるなく、その後両国已に交戦に及びし時に及んでは、我が国は強を抑え弱を扶け仁義の師を起こすものなりといい、殆ど成敗の数を度外視し、この一種の外交問題を以てあたかも政治的必要よりもむしろ道義的必要より出でたるものの如き見解を下したり。尤もかかる議論をなす人々の中にもその胸秘を推究すれば、陰に朝鮮の改革の名として漸く我が版図の拡張を企図し、しからざるも朝鮮を以て全く我が保護国として常に我が権力の下に屈服せしめんと企図したるものもあるべく・・・その公然世間に表白する所は、社会凡俗の輿論と称するいわゆる弱を扶け強を抑ゆるの義侠論に外ならざりき。・・・とにかくこの一致協同を見たるのすこぶる内外に対して都合よきを認めたり。・・・ともかくも陰々たる曇天を一変して一大強雨を降らすか一大快晴を得るかの風雨針としてこれを利用せんと欲したり」(岩波p63) 


陸奥は開戦に際して冷徹な外交で欧米列強を排除し、清国とだけ戦う戦略環境を構築して、その戦争のエンドステートを見極め、むかえた有名な三国干渉でリアリストらしい引き際をみせた。その思考の歩みがどのようであったかを追体験できる「蹇蹇録」は「帝国主義」が消えて見えるような今の時代にも学ぶ所ありと思う。

なお、陸奥宗光は若き日に政治犯として長い間獄中の人となった。そこで、「最大多数の最大幸福」で有名なベンサムの著作を辞書と向き合い翻訳し自分に鍛え続けた。陸奥は熱い想いのリアリスト、そんな風にも思う。

なお、勝海舟の手向けた挽歌は「桐の葉の 一葉に散りにし 夕べより 落つるこの葉の 数をますらん」


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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

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