論語読みの論語知らず【第36回】「詩を学びたるか、と。こたえて曰く」

ビジネス文書の書き方などのマニュアル本は世の中にあふれている。一方で詩の書き方の本となれば点数は限られてくる。大きな本屋であっても小さな一角に申し訳程度に俳句、短歌、漢詩の書籍が置かれている程度だ。恋愛の告白もメールで済ませる時代に、思いのたけを詩にこめておくるという習慣はほぼ消滅した。古くは好まれたやり方が、いまではときにストーカー行為とされることも多分にある。ところで「礼」を貴ぶイメージが強い論語の世界は、実のところ詩をとても大切にするのだ。こんな一文がある。


「陳亢 伯魚に問いて曰く、子も亦異聞有るか、と。対えて曰く、未だし。嘗て独り立てり。鯉 趨りて庭を過ぐ。曰く、詩を学びたるか、と。対えて曰く、未だし、と。詩を学ばずんば、以て言う無し、と。鯉 退きて詩を学べり。他日また独り立てり。鯉 趨りて庭を過ぐ。曰く、礼を学びたるか、と。対えて曰く、未だし、と。礼を学ばんずば、以て立つ無し、と。鯉 退きて礼を学べり。斯の二者を聞けり、と。陳亢 退きて喜びて曰く、一を問いて三を得たり。詩を聞き礼を聞き、又君子の其の子を遠ざくるを聞けり、と」(季氏篇16-13)


【現代語訳】

弟子の陳亢が孔子の子の伯魚に、先輩ながらこうたずねたことがあった。「あなたは先生から特別の教えを受けたことがありますか」と。すると伯魚(名は鯉)がこうお答えした。「いいえ。ただ、以前のことですが庭に父が独り立っておりました。私がその傍らを通っておりましたとき、詩を学んだかと声をかけられ、まだ十分にはと答えますと、詩を学ばなければ、まともな発言はできないと教えられました。その後、私は懸命に詩を学びました。また、ある日のこと、父が独り立っておりました。私がその傍らを通っておりましたとき、礼を学んだかと声をかけられ、まだ十分にはと答えますと、礼を学ばなければ、世に出る資格がないと教えられました。その後、私は礼を懸命に学びました。この二つのことを直接に教えてもらっただけです」と。陳亢は退出したあと、喜んで次のように言った。「一をたずねて、三つのことを学んだ。詩の大切さ、礼の大切さ、そして先生はそのお子を特別扱いなさらなかった。この三者を学んだ」と(加地伸行訳)


なお、この一文がさしている「詩」というのは、いわゆる四書五経のひとつの三百余篇で構成される「詩経」をさし、中国において最も古い詩集となる。紀元前千年よりはるか昔に存在した殷の王朝、その遺跡である殷墟から発掘される青銅器に彫られた文字には、神への祈りや感謝について語られているが、それらが詩経の源流といわれる。司馬遷の「史記」では、孔子が「詩経」を編纂したとあるがこれについては「夢」のある話だというくらいにしておきたい。現代ではすっかりかび臭い存在の詩経も、古代から連綿と読み継がれ、特徴的なのはその詩の解釈が時代によってかなり異なるというところだ。たとえば、「詩経」の鄭風(ていふう)に「狡童」という詩がある。


彼の狡童
我と言わず
維れ子の故に
我をして能く餐らわざらしむ
彼の狡童
我と食わず
維れ子の故に
我をして能く息わざらしむ


この詩の本来は恋人の冷たい仕打ちに対して苛立つ女性心理を詠ったものとされ、現代語訳にするとこうなる。


あのずるい人、私に口もきいてくれない。あんたのせいで、ご飯ものどを通らない。あのずるい人 私と仲良くしてくれない。あんたのせいで 眠れもしない


しかしながら、孔子が生きた時代より500年くらい後の漢の時代には、この詩の解釈は政治的な匂いを帯びて一変する。鄭(てい)国の公子を批判したものとする訳はこうなる。


あの頭の悪い公子は賢者である私と仕事をしないで(勝手なやつらの言いなりなったせいで追放されてしまった)お前のせいで私たちは憂いでご飯も食べられない。 あの頭の悪い公子は賢者である私に相談することもなく(勝手な奴らの言いなりなったせいで追放されてしまった)お前のせいで私たちは憂いで休むこともできない。


こうなると両者はまったく別物に見えてしまう。これほど開きがあると、詩経などいい加減なものだと思われるかもしれない。ただ時代時代で人々が詩と真摯に向き合い、その解釈を行ってきたのは事実だろう。


さて孔子はなぜ「詩を学ばなければ、まともな発言ができない」とまでいったのだろう。私が勝手に想像するに、詩を書くとき、詩を詠むとき、それを真摯に行えば、人は自分のなかにある純情と煩悩、無作為と作為の狭間に揺られながら、人から「共感」を呼ぶ言葉を手繰り寄せていく。字数やスタイル、韻などの制限があればこそ、あるものを残し、あるものをそぎ落として、限られた言葉でそれを吐露する作業は、ゴリゴリと積み重ねて、「論破」を試みる論理構築とは異なる世界だ。世間で物事を行っていくときに、「論破」するよりも、「共感」を呼ぶことが案外大切なのだと孔子は仄めかしたのだろうか。詩経に限らず、古い詩を読むのはときに面倒だが、理屈はほどほどにして、素直に読み込み何かを感じるならばそれは一つの趣かと思う。「礼」についてはまた改めて述べたい。


***


筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

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