論語読みの論語知らず【第38回】「車中には、内から顧みず」

松任谷由実の「卒業写真」を初めて聴いたのは中学校の頃だ。サビの部分、「あの頃の生き方を あなたはわすれないで あなたは私の 青春そのもの ひとごみに流されて 変ってゆくわたしを あなたはときどき 遠くでしかって」この歌詞の意味など当時理解できるはずもなかった。さて、40歳を過ぎた今ならばどうか答えは半分イエス、半分はノー。一般論かもしれないが、年を重ねていくとカタチの上では何かといわゆる自由を失っていく。

例えば、組織人として勤める人は、年とキャリアを重ね、責任と役職が付随してくれば、そのうち自然と、部下や周囲との距離ができてくる。少し前まで宴会とあれば、ワイワイガヤガヤ二次会、三次会まで付き合ったのが、一次会までしかお呼びがかからなくなったりする。(人によってはお呼ばれもしない)新幹線で出張となれば、それまでは普通車での移動が、グリーンがOKとなり、普通車でビールをあけ、ときに席を転換して向かい合わせで適度に楽しくやっていた雰囲気が、グリーンになれば少しばかり慎ましさが求められる雰囲気だ。(もっとも、普通車とグリーン車の違いは、所詮対価の違いなので、それ自体は格式や品格とはまったく関係ない)
「年相応」という言葉の使い方は難しいが、「やんちゃ」、「無茶」がカタチの上で許容されなくなり、多少なりとも不自由になるときの枕詞にも使われるだろう。ただ、年を重ねてカタチが変りゆき、自由を失うように見える一方、精神世界では大いに自由を増すようにも思えるのだ。論語に次のような言葉がある。


「車に升(のぼ)るには、必ず正しく立ちて綏(すい)を執る。車中には、内から顧(かえり)みず。疾(はや)く言(ものい)わず。親(みずか)らは指(ゆびさ)さず」(郷党篇10-20)


【現代語訳】

老先生は、車に乗られるとき、必ず身体をまっすぐにされ、綏(ひきなわ)を取って上られる。車の中では、きょろきょろとあちこち外を見回すようなことはされなかったし、早口でおっしゃられることもなかったし、みずから人や物を指すようなこともされなかった(加地伸行訳)


この言葉、裏を返せば、孔子とて若いころは、知的好奇心からあちこち見まわし、ほとばしる情熱から早口になり、義憤に駆られて指さして人や物事を難詰するようなこともあったに違いない。だが、年月のなかで自らを磨き、そうしたことを矯正しおえた姿、人が変りゆくことを仄めかした一文のように思えてしまう。私などはこの一文から、カタチの上でお仕着せのマナーや礼儀を守ることを迫られ、品格を保つ振舞いが求められる不自由の一方、努力する自由、責任と役割を担い、それを行使する自由、惑わずに前を見つめ道をゆく自由を、「車中には、内から顧みず」から感じ取る。もっとも、これに賛同するかどうかは自由の定義によるかもしれない。


世間には「ちょいわるおやじ」なる言葉もあり、カタチを適度に崩して道を往来する者もいるし、カタチに年は関係ないという意見もある。一理あると思うが、それもまたある程度年を重ねた時点で何を道筋に志すかによるかもしれない。年と壮年と老年、時間軸でふつうに考えれば教養の積み重ねは異なり、異なるべきで、自然と見据えるものは変るはずだ。そのとき、不自由に見えることは、むしろ、真の自由を守るための藩屏かもしれない。そう考えてみれば、表向きはカタチの上で変わりゆくけども、精神はいまもなお青春そのものという人はいるだろう。


***


筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

~ 誠実に対話を行い 真剣に戦略を考え 目的の達成へ繋ぐ ~ We are committed to … Frame the scheme by a "back and forth" dialogue Invite participants in the strategic timing Advance the objective for your further success

0コメント

  • 1000 / 1000