論語読みの論語知らず【第41回】「其の位に在らざれば、其の政を謀らず」

「転職」が珍しくもなんともない時代になった。ただ、全てがうまくいくわけでもない。たとえば、大きな組織から小さな組織へ、年嵩でキャリアに自信がある人が転職してくると、意外と難しいのは当人が思っている以上に物事が見えてないことかもしれない。どんな組織も長年培われた組織文化があり、それは言語化されていないことが多い。それを見極めないで、気負いで事を進め立場を忘れて口出しすれば、遠からず相手をされずに終わる。だが、孤立はするが生命まで失うわけではないから所詮は小さな物語だ。論語にこんな言葉がある。


子曰く、其の位に在らざれば、其の 政(まつりごと)を謀らず」(泰伯篇8-14)


【現代語訳】

老先生の教え。その地位にいるのでなければ、(差し出がましく)全体運営について口を挟まない(加地伸行訳)


分際を弁えて、その上で行動しなさいということなのだろう。もっともその地位にいて権限を有しても、身を全うできないことがある。

司馬遷の『史記』「商君列伝」の主人公は商鞅(しょうおう)(公孫鞅・こうそんおう)という。商鞅は魏の国で将軍から宰相にまで上り詰めた公叔痤(こうしゅくざ)の側近として仕えて、公叔痤はその商鞅の能力を高く評価するが、魏の王である恵王には直接引見させないでおいた。この公叔痤が年老いて大病をしたとき、恵王自ら見舞いに来て後事を誰に託せばよいのかを訊くと、「公孫鞅は若いですが能力があります。王よ、国事については彼に聴くのがよいでしょう」とした。王がまともに返事をしないのを見て公叔痤はこういった。「もし登用しないなら、必ず彼を殺してしまうように。生きて国境を越えさせてはいけません」とした。恵王はどちらも実行しなかった。


時が過ぎて、商鞅は急速に力をつけていた隣国の秦が人材を求めていると聞き、秦の王であった孝公に自らプレゼンをして登用された。そのプレゼンは4回にわたり、第1回は「帝道」を語り、孝公は退屈で居眠りをした。第2回は、「王道」を語るが、これもまた孝公には理解できなかった。第3回は「覇道」を語ると、孝公は興味関心をしめし、第4回で「強国の術」を語れば、孝公は夢中になった。左庶長という高位についた商鞅は改革をつぎつぎ実施する。苛烈な法律を定め徹底させ、住民を互いに監視させ連帯責任を科す制度をつくり、農耕を奨励する一方、サービス業などを抑え、読書を禁じて民が思考することを封じた。同時に強兵策も講じて武力を強化した。秦の国は一時的に「安定」し強国となり、魏へ侵攻しその領土を奪い取り、その功績でついに商鞅は宰相にまで上り詰めた。


圧倒的な権力を握るも、このあたりから引退を直言するものが出てくる。国は強くなったが、商鞅のやり方に人々の怨嗟が渦巻いていたからだ。だが商鞅は一度手に入れた権力の味を手放して引くことはできなかった。だが、後ろ盾の孝公が亡くなり、新たな王が即位すると全てが一変した。「商鞅に謀反の意思あり」と密告するものにはじまり、商鞅失脚の画策が蠢動し、彼はついに逃亡を迫られた。国境の函谷関にまで逃げて宿に泊まろうとすると「旅券不携帯」という小さな法律違反で亭主が宿泊を拒否する。商鞅は自らの政策が徹底されたことを嘆息とともに知ることになった。進む道を失い、来た道を戻るも捕まり、後に車裂きの刑に処せられている。


司馬遷は、この商鞅を「天資刻薄」(生まれながら残酷で薄情な者)として評している。だからといって、「天資有徳」であればうまくいくと司馬遷は決していわない。それでも、人徳がなければ「其の位」にあるべきではないとは思う。なお、己の人徳や分際を事前に知るのはいつだって難しい。そして、転職した事後に大抵それを知ることになる。


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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

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