温故知新~今も昔も変わりなく~【書評・第26回】 浅野裕一『墨子』(講談社学術文庫,1998年)

一世風靡したが忽然と消えゆくことはアイドルの専売特許ということではない。古代中国に「墨子」という思想家がおり、その墨子がつくった墨家集団と称されるものもそうであった。自分と他人とを等しく愛しなさいと説く「兼愛」、侵略戦争を否定する「非攻」などの考え方で有名だが、一度、侵略戦争と認定するや、墨家集団は攻められている側に加担して、徹底的にその防戦に力を貸したという。


「墨守」という単語は今では、自己の主張や習慣などをかたく守って変えないことを意味するが、この語源は墨子に由来する。この墨子によってつくられた集団は、春秋の末から戦国の末まで、大きな力を持ち儒家とその勢力を二分していた。だが、この墨家集団も秦の始皇帝あたりから忽然として消えてしまう。この「墨子」を読み進めていくと、文章はとてもつまらないのだ。ゴリゴリの論理で没個性的な機能性の追求を説き、遊び心なんてまったくない。(だからといって読む価値がないとはいわない)ただ、「墨子」のなかで「公輸篇」(こうしゅへん)に例外的にドラマチックな場面が出てくる。


魯の国に、公輸般(こうしゅはん)という天才的な発明家がおり、その名は天下に知られていた。この公輸般は、楚の国に遊山に出かけていくと、その先でいくつか新兵器を開発して楚王の信頼を得て、内々に攻城兵器の発明を打診された。城に攻め入るには、門扉を打ち破るか、高い城壁を乗り越えるしかないが、公輸般は城壁を越えるためのはしご車である「雲梯」(うんてい)という兵器をつくりあげた。

楚王はこの兵器を使って宋の国を攻めることを考えはじめたときに、その情報が魯の国住んでいた墨子にももたらされた。墨子は防戦の天才でありながら、侵略戦争を無くすことに命を賭す者だから、即座に遠路はるばる楚へ赴き、公輸般と面会した。雲梯という新兵器の登場によって全国の城(街)が落城しやすくなれば、それは結局のところ戦争を拡大することだけにつながるから、雲梯の使用中止を勧告するも、楚王の命を盾にして断わられた。


墨子は直接楚王に掛け合うも、既に楚王はこの新兵器を使ってみたくてうずうずしていた。そこで墨子は即興で公輸般と机上演習(シミュレーション)を行うことにした。墨子は自分の帯をとき丸めて城の形をとり、小さな木片でなどで櫓などを再現した。そして、公輸般は木片を雲梯に見立てて攻撃を開始した。だが、墨子はよく防戦し公輸般の攻撃をすべて退ける格好となった。

公輸般は負けを認めるとまだ最後の一手があると口をすべらせる。楚王にはその意味がわからなかったが、墨子は即座に公輸般の意図を見抜きこう述べた。

私を殺してしまえば、宋を実際に守れるものがいなくなるとお考えでしょうが、既に私の門弟300人が私の用意した防御兵器を携えて、宋の城壁で陣を布いて待ち構えております」と。


楚王は宋の攻略を諦めた。だが、この話にはオチがある。宋を救った墨子のこの事実は一握りの人間だけが知ること。墨子は帰国の途中、大雨に遭い宋のある村で雨宿りしようとすると、門番に怪しまれて村から追い払われてしまった。

この公輸篇の最後はこう結ぶ。

故に曰く、神に治むる者は、衆人其の功を知らず。明に争う者は、衆人之を知ると」(物事を神妙の中に成し遂げた者は、人々にその功績を知られることがなく、目に見える場で派手に成功を争った者は、人々にその功績をほめたたえられる、と語り伝えれているのである)

なお、墨子が苦笑したのかどうかはわからない。


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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

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