温故知新~今も昔も変わりなく~【第33回】 マイケル・サンデル『公共哲学』(ちくま学芸文庫,2011年)

今から20年くらい前、米国留学時に履修した科目でいまでも印象に残っているのは政治哲学の講義だ。結構なペースでレポート提出が求められ、講義の多くは教授と学生のディスカッションが主体で白熱し、それに参加するためには事前に課題図書や資料を読み込んでいることが前提だった。穏やかな表情で抑制されたトーンで言葉を紡ぐ教授だが、いっていることは鋭利な刃物のようで、学生たちが積み上げた論理の楼閣を瞬時に切り裂いた。もちろん、これは教授が自分の考えを押し付けるのではなく、学生たちに一生懸命に考えることの大切さをわからせる教育的配慮だった。この教育スタイルに私自身大いに触発されたものだ。


日本の大学事情を詳しく知るわけではないが、先日、ある先生と話をしていたら、日本では政治学を教える学部でも政治哲学を科目として設置していない大学もあるときいて少なからず驚いた。その理由をきく時間まではなかったが、これを放置してよいこととは思えなかった。さて、日本でも「ハーバード白熱教室」と銘が打たれ知られたマイケル・サンデル先生、その主著である「これからの「正義」の話をしよう」(早川書房)はベストセラーとなった。もう一冊サンデル氏の日本語で読める著書に「公共哲学」(ちくま学芸文庫)がある。こちらは前者に比べてハードな内容となっているがじっくりと読んでみる価値があると思う。たとえば、同書の第23章「手続き的共和国と負荷なき自己」の書き出しはこうはじまる。


「政治哲学はしばしば、世間からかけ離れているように見える。原理と政治は別もので、たとえ理想を「実行に移す」ことに最大限の努力を傾けたところで、理論と実践のあいだの溝に足を取られるのが関の山だ。だが、政治哲学は、ある意味では実現不能であるにせよ、別の意味では回避不能だ。そもそも、それがこの世に哲学が存在する意味なのだ。・・・」


こう高らかに述べたあとで論考をすすめる。面白いのは、この章のタイトルに含まれる「負荷なき自己」というものだ。このコトバをストレートに読んでまずどのようなイメージを持つかは人それぞれだろうが、サンデル氏はこの「負荷なき自己」というものをリベラリズム批判の文脈で用いている。リベラリズムの主題とは「正義にかなう社会は特定の目的の促進を目指すのではなく、市民それぞれの目的を追求し、かつ全員が同じ自由を享受できることを可能にする。すなわち、特定の善の概念を前提としない原則によって統治されなくてはならない・・」だとサンデル氏はいう。そして、その中で「市民」(おそらく「個人」の語感に限りなく近い)にとって何より重要で、人間性にとって本質的なのは「自ら選ぶ目的ではなく、目的を選ぶことのできる能力」であり、ある目的や目標を優先にすることから独立している姿が「負荷なき自己」である。そして、この「負荷なき自己」を担保することが公正であり正義という考えがリベラリズムには含まれているとする。そして、サンデル氏は同書ではこのリベラリズムの限界を述べていく。


さて、「負荷なき自己」、私なりにカジュアルにいえば「(自由な)個人」は常に一定の支持を受けるものだ。西洋哲学のように論理と言葉でゴリゴリと論究をしていくと個人とは何かという問題に突き当たり、個人の可能性を定義することに迫られるのだろう。もちろんこれは大切なことで否定はしない。

ただ、一方で、論理や言葉で探ることのできる「個人」がどこかさほどのものだろうか・・という視点も担保しておいて良い気がするのだ。お茶を飲むのも、食事をするのも、酒を飲むのも一人で出来るが少なくとも会話は弾まない(弾みようがない)。個人は別の個人との間柄が成立して初めて浮かび上がるものもたくさんある。あまり個人に特化すれば、自分だけで自分探しを迫られて疲弊して、結局のところ「負荷だらけの自己」ともなりかねない。サンデル氏は、コミュニタリアニズム(共同体主義)を標榜していると単純に評されることもあるがその論考はとても濃厚で面白いと私は個人的に思うのだ。


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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

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