論語読みの論語知らず【第48回】「食を足らし、兵を足らし」

軍事力の本質はパワーだともいわれる。多分その通りだろう。そして、この軍事力について思考放棄するのがひとつの倫理的態度としてあつかわれる雰囲気が一部で存在するのも多分事実だ。ただ、私はこれを倫理的態度とは思わない。12月に発売した拙著「『失敗の本質』と戦略思想」。この本のあとがきで、軍事とは物騒なものではあるからこそ片隅に放置することなく、これをコントールするためにしっかりと向き合うのがひとつの倫理的態度だとの主旨を書いた。ところで、論語に次のような言葉がある。


「子貢 政(まつりごと)を問う。子曰く、食を足らし、兵を足らし、民 之を信ず、と。子貢曰く、必ず已(や)むを得ずして去らば、斯の三者に於いて、何をか先にせん、と。曰く、兵を去らん、と。子貢曰く、必ず已むを得ずして去らば、斯の二者に於いて、何をか先にせん、と。曰く、食を去らん。古 自り皆死有り。民 信ずる無くんば立たず、と」(顔淵篇12-7)


【現代語訳】

子貢が為政者の心構えを質問した。老先生はこうおっしゃられた。「民の生活の安定、十分な軍備、そして政権への信頼である」と。すると子貢は質問した。「(食・兵・信の)三者の内、どうしても棄てなければならないとしましたならば、まずどれでしょうか」と。老先生は「軍備だ」と答えられた。子貢はさらに質問した。「では残った二者の内、どうしても棄てなければならないときは、どれでしょうか」と。老先生はこう教えられた。「生活だ。(もちろん食べなければ死ぬ。しかし)古来、人間はいつか必ず死ぬ。(けれども)もし為政者への信頼がなければ、国家も人も立ちゆかないのだ」と(加地伸行訳)


この一文の「兵を去る」を軍備軽減ではなく、軍備全廃の意味で解釈する向きもあるようだが、これは行き過ぎた解釈であり、節減程度の意味で捉えるのが妥当だろう。国政に責任のあるものが、国防の手段をそう簡単に放棄などはできない。それでも「食」「兵」「信」のうちに最初にある程度諦めるとするならば軍事力を孔子はあげている。この一文をどう考えるべきだろう。国土や資源に恵まれ、十分な経済力と人口を有していれば、軍事力に対しても十分にヒト・モノ・カネを充当することができる。だが、こうしたスーパーパワーを有した国家自体は実のところ稀な話であり、ほとんどが理想とする軍事力を有することができないままに、その不足を補うための創意工夫が求められる。


ここに「戦略」の役割と出番がある。現有の軍事力が本来望ましい水準を満たすものでなければ、シンプルな力任せの国防は不可能であり、戦いとは何かを考え、どのように戦うかについていろいろな組み合わせや合わせ技を考えなければならなくなる。諸般の事情で「兵」を減らすならば、その分より一層どのように戦うのか、軍事力以外のものもまた戦力に転化して国防を可能にする高等戦略を考えなければならなくなる。

実際のところ、孔子は弟子の子貢を使い祖国である「魯」が侵略される窮地を外交戦でもって救っている。そのとき子貢が弁才を駆使したテクニックはいうなれば謀略の性質を帯びるもので孔子はそれを結果的には容認した。さて、この論語の問答がなされた状況を勝手に想像してみた。子貢は数多い弟子たちの中から自分が外交使節に選ばれ、八面六臂の働きをして魯を救ったこと自体にはおそらく得意満面となっていただろう。案外この問答はそのときになされたのかもしれない。


孔子は「兵」の次は「食」を諦めることをとき、「信」だけは捨てられないとした。謀略と二枚舌で他国を犠牲にして生き残れたとしても、それを得意がってはいけないのだと子貢に訓戒したのではないか。そう考えるとこのシーンは、子貢は孔子から褒められるとばかり思っていたのが、冷や水を浴びせられ、顔に脂汗を浮かべながらも必死に孔子に食らいついている姿が浮かんでくるのだ。さて、軍事力の本質はパワーだと冒頭で述べた。だが、このパワーもまた「信」との間に舫(もやい)がなければただの暴力装置に堕することはいうまでもない。


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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

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