温故知新~今も昔も変わりなく~【書評・第36回】 ルソー『人間不平等起源論』(光文社古典新訳文庫,2008年)
高校時代のことだ。「現代社会」(公民)の科目で社会契約論を扱ったときに、担当教師が「ルソーのいう社会契約論はちょっと何をいっているのかよくわからない」で片付けた。内心「え!先生それでよいの?」と思いながらも噛みつくのも「大人げない」からやめた。今にして思えば、この先生はルソーをわかろうと努めることなく1ページも開かないうちに社会科教師になったのだと思う。
確か、作家の塩野七生さんだったと思うが、「作家はその人の人間性などではなく、その作品で評価されるべきだ」との趣旨のことを著作のどこかでいっていたと思う。この発言の賛否はおいておくとして、ジャンジャック・ルソーという人は結構フラフラしながら生きた人だと思っている。ただ、思想(作品)はやはりそれなりに考える糧を与えてくれる。社会契約といえば、国などのなんらかの政治体が存在しない「自然状態」では「各人が各人に対して敵である」(万人の万人に対する闘争)とのフレーズで覚えている人も多いと思う。
この考え自体はルソーではなく、彼よりも100年以上前に生まれたホッブスの思想だ。このホッブスという人が哲学のなかで「自然状態」というコンセプトを最初に持ち込んだ。さて、ルソーの作品といえば「社会契約論」が圧倒的に有名だが、その前段階にあたる「人間不平等起源論」という本がある。この本はルソーがとある懸賞論文に応募したものがベースになっており、与えられたテーマは「人間の不平等の源泉はどのようなものか、それは自然法のもとで認可されるものか」であった。多分、前半の一節はわかっても、後半の「自然法」といわれて即座に皮膚感覚ですぐわかる人は多分稀な存在だ。
「自然法」の一応の定義らしきものはあり、それは「事物の自然本性から導き出される法の総称」である。ただ、これだけではピンとこないのが普通だろう。事実、ルソーは自然法なるものの定義について考え方が対立している状態で、「自然法」などを持ち込むことは混乱を招くだけであり、そして「自然法」自体が「人間が自然に獲得したものではないさまざまな知識」(序より)を持ち込んでしまっていると指摘する。つまりは「人間が自然状態(エタ・ド・ナチュール)から出たあとでなければ考えることのできない」(同)知識や概念を自然状態に組み込んでしまっていると喝破する。
したがって、ルソーは自然法の性質とは何かを改めて考え、「人間の魂の原初的でもっとも素朴な働き」(同)とは何かと考えた結果、自然法は二つの原理で成り立つとした。一つは、人間は誰もがみずからの幸福と自己保存を望むこと(これはホッブスとたいしてかわらないし、西洋哲学ではわりと普通のことだ)、もう一つは、人間は誰しもが他人の苦痛に対して憐憫の情を覚えるものだとした(これはルソーの特徴といってよいかと思う)。ルソーはこれら原理の組み合わせることで「自然法のすべての規則を導き出せる」(同)ものであるとして、ホッブスのいう「万人の万人に対する闘争」とは違った自然状態を想定するのだ。
ホッブスは「自然状態」のままではいろいろと不都合ゆえに、共通の権力をつくり、「・・すべての権力と強さを、一人の人間または人々の一つの合議体に与える・・」(同)ことを主張する。だが、ルソーはこの考え方は自然状態から社会成立(国の成立)の移行に至るまでには、人々のなかにそうした考え方が生まれて根付くために相当な時間が必要なはずであり、ホッブスを短絡的として批判した。ちなみにルソーは、自然状態を考えるに際して、「もはや存在してない状態」「おそらく存在したことのなかった状態」「きっと今後も決して存在することのない状態」であるとして、あくまでも仮設的で思考実験上のものであることを断っている。
さて、ホッブスにしても、ルソーにしても「自然状態」の考え方からだけでも、何かと考える糧となってくれる。ふと思ったのは、この国がかつて縄文・弥生時代などと呼ばれた時代のあたりでは、どんな状態であったのだろう。案外、ホッブスやルソーとはまたちがった「自然状態」があったようにも思うのだ。
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筆者:西田陽一
1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。
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