温故知新~今も昔も変わりなく~【第39回】 梅原猛『闇のパトス』
ビックネームと呼ばれる人たちにも当然のことながら無名時代がある。ビックネームの無名時代の作品に運よくめぐり逢い、それを読むことは、ときに意外な収穫をもたらす。哲学者・梅原 猛(うめはら たけし 1925~2019)の作品などはそうかもしれない。
梅原が26歳のときに論文として書いた作品に「闇のパトス」なるものがある。これは後年になって梅原が日本研究の領域に立ち、記紀や万葉集などに分け入っていく前段階のもので、ストレートな表現をすれば西洋哲学にかぶれた悩み多き青年のときのものだ。梅原は大東亜戦争で勤労奉仕を命じられ、末期には学徒出陣の対象になり、京都大学哲学科在学中に陸軍二等兵として第216師団に組み込まれ熊本で戦争の終わりを迎えた。
梅原は戦争中に空襲を経験しては、戦争の敗北を確信し、同時に自らもまた遠からず死する運命が常に念頭にあり、その反動からか哲学や宗教書を読みふけったと告白している。戦争が終わり復学し、大学院に進んで間もなく「闇のパトス」を書いた。この論文は著作集のなかに収蔵されており、梅原自身が後年にこの著作集が発刊された際の自序(まえがき)のなかで、「闇のパトス」についてこんなことをいっている。
「処女作というものは、所詮、その著作家の一生を決定するものであろう。もちろん、二十五歳の私が、その後の私の人生を見極めていたわけではない。・・・その時、何らの予感を私はもっていなかった。私は、一度決めた研究の領域を小心に守り、一生を営々としたその開拓に費やす勤勉な学者ではない。・・それ故、今の私は、「闇のパトス」の当時とは全くちがった研究領域の上に立っているように見えるが、やはり、この「闇のパトス」なる処女作は、著作者としての私の姿勢とともに人生と世界とを見る私の視点を決定したと思う。「闇のパトス」を私は、ある目的とある決意をもって書いた。私はこの論文を、私の生を確認するために書いた。・・私は、すべての言葉を、私の中からつむぎ出そうとする覚悟をもって論文を書いた。従って、過去の哲学者の言葉を一言も引用せず、すべての思想を、私自身の内的な世界の中へ還元して、私自身の言葉でもって私自身の思想を語ろうとした・・・」
「闇のパトス」は長い作品ではなく、いうなれば小論文のようなものだ。だが、有名な哲学者の言葉や他の論文をやたらと引用しては貼り付け、注釈ばかりが目立つパッチワーク的な専門論文ではないだけに、若いころの梅原の苦悩や不安が素直に読み取れるものだ。この作品の最初のほうでこんなコンテクストがある。
「・・不安というものがある。それは最もしばしば人を襲うけれど、それゆえにこそ、最もたやすく人の眼をそれるものである。不安が人におしよせるとき、人はできるだけ早くそれからまぬがれようとして、もがき苦しみ、やがてはそれから脱するけれど、そのたびごとに見落とされるのは不安の本質なのである・・」
そして、疑問や問いかけが多いのもこの作品の特徴なのだ。
「・・人は生きる。未来に希望をもって。この一見きわめて明瞭な人生の事実に何かが隠れていないであろうか。人は未来に希望をもたずに生きられないとはどういうことなのだろうか。・・・希望とはそうでない己に堪えられず、そうであろう己を構想し、それを実現しようとすることによってそうでない己を忘れようとすることなのである・・」
決して明るい作品ではない。私自身が初めて手に取った梅原の作品は、すでに氏がビックネームになってから書かれたものであったし、この「闇のパトス」を読んだのはわりと最近のことだった。そして、この作品を読んでいるうちに、梅原が文章のなかで使っている主語である「人」「人間」を、すべて「梅原(私)」に変えて読むことにした。もちろんふざけてなどいないし、軽んじるつもりなどはまったくない。ただ、そう読み替えたほうがむしろ氏が抱えていた闇が深くから立ち上がってくるかに思えたのだ。
さて、少し安易な気もするが、「闇のパトス」にならって、「闇」と「光」で考えてみたい。私個人の意見だが、もしかすると人は生まれつき、あるいはアプリオリに、光と闇をもつ分量に差異があるのかもしれない。この仮定を是とするならば、梅原猛という人は相当な闇をもともと抱えて生まれ出でた人だったのではないだろうか。ただ、それだけの「闇」の量を背負っていたからこそ、どこかに一方でひたすらに光を求め、それが学問を続ける動力になり、ついには梅原日本学なる独自の世界を作り上げるエネルギー源にもなったのかと思っている。
なお、梅原は哲学者西田幾多郎に深い関心を抱いていた。だからこそ京都大学哲学科に入学もした。そして、西田幾多郎を乗り越えることを自身の目標にもした。だが、これまたまったく私見だが、梅原が深く闇を抱えて生まれ出でた人であるならば、反対に西田は
深く光に包まれて生まれ出でた人であると思っている(西田の人生が順風満帆だったなどとはいわない)。つまり、良い悪いなどではなく、あまりに二人のスタート地点とそのベクトルがどこか違い過ぎたと思う。ビックネームに何をトンチンカンなことをとお叱りを受けそうだが、私自身は梅原にたいしてこのように折り合いをつけると、氏の他の作品が妙に読みやすくなったのは不思議だ。
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筆者:西田陽一
1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。
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