論語読みの論語知らず【第54回】「道に聴きて塗(みち)に説くは」

新型コロナウイルスに関わるニュースは相変わらず溢れている。ネットニュースでは、新たな情報が持たされる都度、それを読んだ一部の人からの匿名コメントが何千何万と増殖していく。その多くが短いセンテンスで、注意して読めば脈絡や論理がテキトーなことは看破できるし、感情的なリアクションに過ぎないものが大半だと気づく。これらがどれほど世論を構成していくものなのかはわからないが、適度に読み流しておくことはできる。


だが、世の中には一見すると筋が通り、ある程度論理的整合性もあり、そして、適度な分量で纏められているものほど、ときに気をつけて読まねばとも思う。偶然ニューズウィーク日本版(3.24号)でとあるルポ記事を読んだ。タイトルは「オウムと麻原の「死」で日本は救われたか 地下鉄サリン25年」というもので、書き手は作家で映画監督の森達也氏だ(佐村河内氏のゴーストライター問題を扱ったドキュメンタリー映画「FAKE」などで有名)。この雑誌にしては珍しく10ページにわたる分量で構成されている(写真や図表を含む)。私はこのルポの内容に同意できない部分が多々あるが、なかなか骨太にみせる巧みな手法を用いているとは思った。


情理(人情論)と法理(法律論)を交互に駆使しながら、本論(著者が言いたいメイン主張)をまぶしつつ入れ込み、そして、興味をひく事例を適度に入れ込み、意図的かどうかわからないがときに本筋を脱線させて読み手に対して最大公約数的な可笑しみと哀しみのエピソードも散らしている。一部読者が起こすだろうアンチの感情も巧くなだめるような表現も配置されている。そして、読み手がさほど負担を感じずに無意識のうちに俯瞰(鳥の眼)とフォーカス(虫の眼)を交互にスイッチさせて全体の統一論旨をぼかして、感覚的にルポ内容に引き寄せていく手法が組み込まれており、この構成のままドキュメンタリータッチの映像作品にもなりそうだ。


書き出しは松本元死刑囚(以下松本)の三女の独白から始まる。「処刑後の父とは2回会いました。最初は本当に短い時間・・・遺体を返してくださいと何度もお願いしたのだけど・・・」。そこから松本が死刑にされた後、三女のツイッターのもとに多くの「よかったね」「おめでとう」などとコメントが寄せられ、いまでも「心があるなら家族も一緒に死ぬ」「おまえが遺族を忘れるな」などが書き込まれることを伝えている。


森氏は松本が死刑に処せられるひと月前に「オウム事件真相究明の会」を設立し、その目的として「(心神喪失状態にあると思われる)麻原を治療して裁判のやり直しを行い、オウム事件の真相を究明すること」にあったとする。長いルポを全部紹介することはできないが、おそらく森氏がこのルポで一番いいたいことは次のことだろう。
「・・異常な言動が始まった一審途中から、麻原の精神状態は壊れ始めていた。でも裁判は続けられた。そもそも一審の審理が終了するまで、麻原は一度も精神鑑定を受けていない。通常の裁判ならありえない。・・一審だけで死刑判決が確定した。・・その帰結として、地下鉄サリン事件の動機が分からない。裁判では「間近に迫った強制捜査をかわすために地下鉄にサリンをまけと麻原が指示した」とされている。その根拠は井上嘉浩が法廷で証言したリムジン謀議だ・・井上自身が後にこの証言を否定している。ところが裁判所はこの証言を前提にし続けた。・・事件を解明する上で動機は根幹だ。多くの人は地下鉄サリン事件をテロと言い添えるが、テロは政治的目的が条件だ。暴力的行為だけではテロではない。動機が分からないのならテロとは断言できない」 


ルポ本文の一部省略したが論理はそれなりに通っている。そして、松本の治療と法理をつなげてこのようにも展開する。


「・・ただ確かに、治療によって回復する可能性は相当に低いだろうと僕も思っていた。・・昏迷状態であれば適切な治療や環境を変えることで劇的に回復する場合があるなどと診断した意見書を公開した。・・刑事裁判の基本はデュープロセス(適正手続き(原文ママ))だ。「たぶん治らない」「麻原は自発的に真実をしゃべるような男ではない」。これはどちらも予測だ。可能性を理由に手続きを省略すべきではない」


森氏は先にふれたようにこのメインの主張以外にいろいろなものをまぶしてルポを書いている。なかでも、後半部分では、千葉県我孫子市がかつて「オウム(アレフ)信者の住民票は受理しません」と宣言する看板が、市役所に堂々と掲げられたこと。そして皮肉にもその看板の横には「人権はみなが持つもの守るもの」との文言の大きな看板がそれ以前から据え付けられたていたことを述べる。森氏はこのことについて次のように書いている「千歩(百歩じゃ足りない)譲る。こうした特例をやむなく実施しなければならない状況であるとしたならば、せめて「人権はみなが持つもの守るもの」は撤去すべきだ。2つのスローガンが矛盾や違和感なく共存できている状況は、その後の日本社会が陥る隘路を暗示している」


ルポについてはもっと紹介したいがこのくらいにしておく。ルポの部分と部分は論理が通るが、全体としては論理のどこがおかしいかなどを看破することは少し注意していれば難しいことではない。たとえば、森氏が法理の大切さをとくならば、この我孫子市の人権と住民票の問題なども、間違いを犯しているとする市役所に対して行政訴訟と損害賠償請求を起こすのが道理で広義の意味で法律の「適正手続」の範疇だろう。誰も一地方公共団体(市役所)が完璧などと思ってないし、森氏は何も「千歩」も譲って人権の看板を下げる必要などないし、森氏が大切に思う法律の「適正手続」を省略する必要もない。ただ、このルポは全体としてはやはり骨太にみえる巧なものであり、論理もそれなりに整理している。一拍おいてじっくり考えるにはなかなか忙しい時代でもあるし、ただ読み流してしまえばそれなりにインパクトは残像のごとく留めるかもしれない。こんなとき論理の矛盾をつくよりも、大切なことはそもそも語られていないことに視座を切り替えてしまうことかもしれない。さて、論語にこんな言葉がある。


「子曰く、道に聴きて塗(みち)に説くは、徳を之れ棄つるなり」(陽貨篇17-12)


【現代語訳】

老先生の教え。受け売りするのは(無責任であり)、自分で不道徳となってしまうことだ(加地伸行訳)


松本はオウムを宗教団体として標榜していた。そして、自らを絶対と帰依させて、物事を自分のあたまで理性的に考えることのできない不出来かつ不道徳な弟子たちを多く作ってしまったことは事実だ。そうした事実が宗教の本旨に合致するものなのかどうかについてはこのルポは一切踏み込むことはない。思想的や信条的なことに興味がなく、そうしたものから一切自由でありたいと別のところで公言している森氏に対してこれは厳しい要求かもしれないが、こうした視座でこの事件が議論されることは極めて少ないのだ。


もう少しハードルを相対的な次元へと下げる。確かにいまでもオウム(アレフ)やその周辺に対して「差別」「偏見」「嫌がらせ」が陰に陽にあるだろう。だが、少なくとも団体が存在することは結果として許されている。上をみたらきりがないし、下をみてもきりがない。ただ、こうした存在をそもそもまったく許さない社会や国家がたくさんあるのもまた事実だろう。あるいは、仮にこうした存在が許容されつつも、それに対してまったく「差別」「偏見」「嫌がらせ」がゼロを達成する社会があるとする。だが、そうなるとそこにはなにか圧倒的な強制力が働くことになるかもしれないし、その強制力は思想的かつ信条的なものと無縁でいられないとも思うのだ。


***


筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

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