温故知新~今も昔も変わりなく~【第40回】 渡部昇一『ドイツ参謀本部 その栄光と終焉』(クレスト選書,1997年)

アマチュアとプロフェッショナル。こう線引きすれば物事は見えやすくはなる。アマチュアボクシングとプロボクシング。アマレスとプロレス・・・これらの線引きはまあ明確だろう。だが、どちらかしかないものもある。「プロ法律家」はあっても、「アマ法律家」は聞いたが事がない。「プロ殺し屋」はどこかにはいるだろうが、「アマ殺し屋」は多分いない(そんなのに誰も「仕事」を依頼しないだろうから、受ける側は自称他称問わずプロを語ることだろう)。

もちろん、プロにもアマにもそれぞれクオリティがあり、一流とそうでない者はいる。さて、ときに一流のプロであり同時に一流のアマである器用な人がいるのもまた世の中なのかもしれない。2017年に逝去した「知の巨人」渡部昇一氏(上智大学名誉教授)などはそうした人だったと思う。残念ながら私は氏の生前にその謦咳に接する機会に預かることは出来なかった。


私が最初に渡部氏を認識したのはそれこそ子供の頃になんとなくみていた討論番組(おそらく「竹村健一の世相を斬る」だったと思う)で、当時は、氏への印象はなんだか偉そうなことを淡々といっているおじさん・・くらいのものだった。その後、学生時代に氏の本をいろいろと読むことになったが、そのなかの一冊が「ドイツ参謀本部 その栄光と終焉」だった。ちなみに氏の本来の専門は英語学であり、この本は素人としての作品である(と氏自身がいっている)。だが、この作品は分量こそ大したことないが、その内容は濃厚で秀逸なのだ。


「参謀本部」という言葉から今日一般的に感じるイメージはどのようなものだろうか・・・プロ集団、機能性集団、頭脳集団、エリート集団・・・こんなところだろうか。ただ、これらは肯定的なニュアンスばかりでもないだろうし、どこか怜悧で温かみのなさや、個人が集団のなかで埋没してしまうなかで機能するマシーン、おなじ制服で統一された無表情の参謀たち・・などのイメージを持たれることもわりと多いかもしれない。参謀本部はドイツで産声を上げたが、ただ、その立ち上がりと成長・発展していくプロセスで関わった主要な人物たちはなかなかユニークなのだ。


たとえば、シャルンホルスト、グライゼナウ、モルトケ・・・あまり日本では知られていないだろうが(全部知っている人はまずもって歴史好き、愛好家、アマチュア以上だろう)、それぞれ興味が惹かれる人物たちだ。ドイツの参謀本部の源流は、カトリック諸侯とプロテスタント諸侯の間におきた30年戦争(この戦争でドイツ全土は荒れ果てて、人口60%が消えた)を経て、戦争の仕方が大きく変わっていく17世紀中旬にある。18世紀になるといわゆる「制限戦争」、相手を徹底的に殲滅して叩き潰すところまでは戦わない考えが共有されていった(戦争は手段として好まれても、決定的な戦闘はなるべく回避して終わる)。

この制限戦争時代の名プレイヤーだったのがフリートリッヒ大王(在位1740~1786)だった。大王は戦争と戦闘と外交といった手段をそれぞれ巧みに配合して駆使することで、「七年戦争」(1756~63)に戦略的に勝利してその平和会議でプロイセンの言い分をかなり通した。(オーストリア、フランス、ロシアといった強国を敵に回しての七年戦争の間主要な戦闘は16回、その半分は戦闘では負け戦だったが、それでも戦争自体は勝ち戦だった)。そして大王の鮮やかな戦いぶりを支えた陰には参謀たちがいたのだ。

だが、この「制限戦争」の時代はフランス革命とそれに続くナポレオンの登場で終わりを迎える。


「フランスの民衆は熱っぽくなっていた。彼らはイデオロギーを得、大義を得、正義を手にしたのである。プロイセンの民衆が啓蒙の醒めた状態にあったのに対し、フランスの民衆は、三十年戦争当時の心情に戻っていた。自分は正義で相手は悪、したがって相手は徹底的に粉砕しなければならず、それについては何の良心の呵責も感じないということになる。三十年戦争後に戦いは王侯のゲームになったのが、再び宗教戦争ばりの深刻な闘争になり、「自由」「平等」「博愛」のフランス大革命のおかげで、ヨーロッパの戦いから再び人道主義の理念が消えていったのはまことに皮肉である。そして新しく現れてきた宗教は、カトリックでもプロテスタントでもなく、国民主義とか愛国心という名のものであった」(「ドイツ参謀本部 その栄光と終焉」第一章より)


徴兵により大量動員が可能となった「国民軍」が創設されたことは戦争の性質を変えた。

すでにプロイセンにフリードリッヒ大王はおらず、やがてナポレオンが現れてその脅威をうけるにつれて、プロイセン軍を立て直すべくシャルンホルスト(当時一介の少佐)なる人物が輩出されてくる。名門やユンカー(貴族)出身ではないこの人物は頭脳明晰かつ信念をもってプロイセン陸軍を変えていくことになる。


「ナポレオン戦争を分析したシャルンホルストの知性にとって、国民皆兵制度、新型の白兵戦、師団方式の軍編成、軍全体にわたる参謀制度の必要なことは、いかなる反対に出合っても曇ることなき明白な認識であった。・・・シャルンホルストが士官学校・・の校長として感化力が大きかったのは、道徳感情が鋭敏で、形ばかりでない本物のキリスト教信者であったからである。逆説めくけれども、彼は戦争を怖れていた。戦争の悲惨な面をよく知っていたからである。戦争が政治の手段として用いられるのは、絶対絶命の時に限り、しかもいやいやながら用いる時にのみ許されるという戦争の倫理を確信を持って教え込んだのである。・・シャルンホルストがプロイセン参謀本部の形成に貢献した第一の点は、まさにこの教育であった。フリートリッヒ大王の時代の戦争ならリーダー次第でどうにでもなる。国民徴兵に基づく大量軍の時代は、ナポレオンのような天才でなければ、だめである。天才はいつでも出るとは限らないし、また天才ですら必ずしも充分でない事態になっているのだ。新しい事態は新しい教育で対応しなければならない。シャルンホルストの眼目はまずそこにあった」(同書第二章より)


彼の死後、後継となったグナイゼナウは貧乏貴族の出身で、対ナポレオンに対して戦争と戦闘で勝つために頭脳として機能した人だ。「シャルンホルストの聖ペテロ」と言われた彼は、自分自身では「シャルンホルストに比べれば自分は巨人の傍らの小人である」と公言していた。このグナイゼナウが参謀の頭として「退きつ攻めつの徹底的消耗戦」といった新しいコンセプトでナポレオンを巻き込み勝利することができた。


そして最後にモルトケ。この人物はとても興味深い。プロイセンからドイツ帝国へと歴史が歩みを進めていくなかで、参謀本部を軍のオールマイティ的なものへと導いてく。モルトケの人となりについてはこのように書かれている


「この無名の新参謀総長は痩身で洗練された身のこなしを持ち、一見、繊細な体格と高い額と薄い唇と尖った鼻は、文学者のような印象を与えた。事実、彼は趣味においても、一人で上等な葉巻をくゆらすことと、モーツァルトの音楽を聴くことを何よりも愛し、途方もない読書家でもあったのである」(同書第四章より)


なお、余談だが、モルトケは26歳の隔たりがある結婚をしている。

「四十二歳の男と十六歳の娘との結婚は二十六歳の年齢差にもかかわらずスムーズに成立し、その後の生活もまことに静かで幸福なものだったという。子宝に恵まれなかったモルトケの家庭は、主人の無口もあって、争いがないという意味でも静かであるのみならず物理的にも物音のしない家であった。彼は上等の葉巻を静かにくゆらしながらクラウゼヴィッツなどを読んだ。そして庭の木が成長するのを眺めるのを無上の慰めとしていたのである」(同書第四章より)


さて、渡部氏はこの本の前書きでこんなこといっている。


「『ドイツ参謀本部』は、文字どおりスタッフ組織の話である。実はドイツ参謀本部こそ、近代における大規模スタッフ組織の元祖であった。しかし、私はそのスタッフ組織の歴史を調べているうちに、それはとりもなおさずリーダー論になってしまうことに気がついた」(新版まえがきより)


氏が知的営みのプロセスで得た気づきを素直な情熱とともに書き上げられているこの作品はやはり秀逸で濃厚で軍事学といった領域を超えて一読に大いに値すると思っている。


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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

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