温故知新~今も昔も変わりなく~【書評・第43回】 ロック『市民政府論』(光文社古典新訳文庫,2011年)

「事態は危急存亡というか超深刻だが対応するには人も物資も法律もまるで足りない状態だ」。与党の政調副会長が吐き出すように呟いた。これは大ヒット映画「シン・ゴジラ」での中盤に出てくるセリフだ。映画のくだりをいちいち書く必要もないだろうが少しだけ触れたい。「巨大不明生物」が突如東京湾に姿をあらわした。当初、政府はこの事態に対して「静観」「捕獲」「駆除」「湾外に追い出す」の選択肢の中から「駆除」に多数の閣僚が賛同し総理がその方針を決める。その実働を担うべく防衛省にお鉢が回るが、過去に法令に基づいた「有害鳥獣駆除」のため出動はあるが、同じコンセプトで怪獣(進化途上のゴジラ)に対して火気使用が認められるものかどうか防衛省は検討の時間を要すると回答。そうしているうちにゴジラは上陸を開始し、政府は事態の急展開を認めて緊急災害対策本部を設置する。(映画ではここに至るまでに数多の会議と文書によるやりとりが必要とされたことを演出している) 


時速13キロで都内を進撃するゴジラに対して、住民避難も完了していない人口密集地での攻撃をためらう間に、政府に代わり東京都が独自にゴジラ駆除のための「都道府県知事による治安出動要請」を出した。(自衛隊法第81条に基づく。なお、内閣総理大臣による治安出動命令は同法第78条) すると今度は、政府がさらに一段踏み込んだ「防衛出動」(自衛隊法76条)の適用を検討して、「超法規的措置」として閣僚たちが総理に決断を迫るシーンになる。(ここでの「超法規的措置」の語用は少しおかしい。総理は法律に基づいて命令を発令しようとしているにすぎない。「防衛出動」は「事前の国会承認」が基本だが緊急時にはそれを省くことは認められている。映画演出上のセリフの考慮か?)。・・・武力行使直前でゴジラは反転して湾内に姿を隠し上陸第一波はここでおわる。


続いて第二波。パワーアップしたゴジラが再上陸、破壊の限りを尽くしながら進撃を開始し、自衛隊は多摩川周辺で阻止を図るも弾が尽きて作戦失敗(タバ作戦)する。都心で米空軍によるバンカーバスター(地中貫通爆弾)使用によってゴジラの外皮にダメージを負わせるも、憤怒に沸き立ったゴジラは光線をばらまき反撃し都心は業火に見舞われた。その際に総理官邸から立川へと政府を移転させるため飛び立った総理以下重要閣僚が乗るヘリも巻き込まれて消滅した。生き残った者たちは立川市にある防災基地で新内閣を組閣することになる。


さて、冒頭に引用したセリフはこのあたりでのものだ。このあと事態は急転直下していく。新たな総理臨時代理のもとに米国大統領から電話による会談が持ちかけられる。会談といっても通告に近いもので米国は核兵器の使用によって東京に陣取るゴジラの殲滅を試みるとのことだった。総理臨時代理はすぐに官房長官を呼びその内容を告げて指示をする。


「米軍を中心とした対巨大生物への多国籍軍の結成を国連安保理が決議した。当事国として我が国も参加、その指揮下で動くことになる。まあ、これを総理に全権委任する特別立法を成立させてくれ・・・」


正直なところこのあたりからよく分からなくなってくる。総理臨時代理が米国に対して多国籍軍への参加を表明した後になって、特別立法にこだわる意味がもはやあるのだろうか・・・(憲法を議論すれば突き当たる集団的自衛権・・その保有と行使を政府として外国に対し明確に宣言した後で特別立法する建付けがしっくりこない)


さて、前置きが大変長くなった。私は基本的には「シン・ゴジラ」を数年前に劇場に足を運んでとても楽しみながら鑑賞させてもらった。フィクションであり、演出と脚色が必要であり、リアルを追求する部分、リアルっぽく見せる部分、リアルとはまったくかけ離れた部分・・いろんな要素をうまく配分しつつエンタメ作品に仕上げなければならないことはもちろんわかっている。そして、「シン・ゴジラ」の出来栄えにイチャモンなどつける気持ちも皆無だ。(だからといって完璧ではないし、映像上の明確な単純ミスなどはある。たとえば、映画では鶴見辰吾演ずる矢島統合幕僚副長の階級章が陸将補(二つ星の少将相当)だが、現実は陸将で「将たる自衛官」(三ツ星の中将相当・政令指定職3号)のポストであるはず・・多分誰も気づかないかもしれないが・・)


映画はあくまでも法律をいかに遵守しながらゴジラと向き合うかといった苦悩と苦闘をひとつの焦点としている。それゆえに面白くもある。数年前であればこれを単純なエンタメとして消化できたが、今改めて鑑賞しなおすといろいろと考えさせられる。少しばかり思考実験をしてみた。もし仮に社会契約論で必ず中学高校の教科書に出てくるジョン・ロックが「シン・ゴジラ」を鑑賞したならばどのようなコメントをしたであろうか・・


人間は生まれながらにして生命・自由・財産を守る権利を有しているが、わざわざ国家を成立させるのは、これらの人権を守るための人々の合意に基づくという考えだ。このロックが述べた人権、社会契約思想はアメリカ独立宣言などを支えるためのベースになった。このあたりはよく触れられる。だが、ロックの「市民政府論」(統治二論)にはもっと多様な側面がある。ここからは私の勝手な想像だが、「シン・ゴジラ」をみてロックはこう言うだろう。


「一体全体なんの騒ぎですか?法が想定してないことなど、国家緊急権を行使すればもっと早くゴジラに対処できるはずではないですか!」(国家緊急権を大権という言葉で表現する可能性が高いが)


市民政府論は全部で19章から構成されている。そして第14章は「君主の大権」についてだ。(なお、ロックは当時の立憲君主制を生きた人だから、現代の議会制民主主義と議院内閣制とは政体は異なる。当時、君主は執行権(行政権)を有していた)ロックはこう書いている。


「大権と称されるのは、法の定めがないまま、あるいは、時には法にそむいてでも、公益を計るためにみずからの裁量に従って行動する権力のことである。法の上位に大権があるのはなぜか。第一に、統治形態によっては、立法権力が常設でないケースもある。また、通常、立法権力は構成員があまりにも多いので行動が緩慢になり、俊敏な対応ができない。ところが、現実に法を執行する際は、そうした対応が必要になってくるのである。第二に、公共の事柄に関係する事件や難局をことごとく予想し、法によって備えることは不可能である。また、法律を杓子定規に適用し、それに抵触している可能性のあるすべての出来事や人間を取り締まるとしよう。そのように運用しても弊害をもたらさないような法律は、作りようがない。以上のようなわけで執行権力は、自由裁量の余地を与えられる。そして、法律によって規定されないさまざまな事柄を、進んで実行するのである」(第14章・160)


ここに独裁や専制のリスクを指摘するむきもあるだろうが、ロックの思想の根底には、こうした大権はあくまでも人々の生命、自由、財産を守るためのもので、現代風の言葉でかつ一部の人の好みでいえば「公共の福祉」の範疇でこそ許されるものなのだ。


さて「シン・ゴジラ」の結末は核兵器を使わせずに日本人の叡智を結集してゴジラを東京駅の真ん前で凝固させてめでたしとなる(ヤシオリ作戦)。多難ではあったがひとまず安心な結末といえるだろう。だが、私が関心あるのはその後の世界がどうなるかだ。ポスト「シン・ゴジラ」の世界において、国家緊急権の所在がどうなっていくのだろうか・・・私としては当然しかるべきカタチになっていくと信じているのだが。


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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

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